ジャンプ女子、高梨のアプローチは世界一
金メダルの大本命といわれてソチ五輪に臨む高梨沙羅(17)のプレッシャーはどれほどのものだろう。想像もつかないが、テクニック、精神面のいずれをとっても彼女を上回る選手がいないのは間違いない。仮に無風という、誰にも有利不利なしの条件で跳べば、彼女が一番遠くまで跳ぶ、と断言できる。五輪の初代女王を巡る戦いを展望してみよう。
精神面、一段とスケールアップ
高梨の小さいころからみているが、当時からすごいと思ったのはその落ち着きだ。勝ち続けていても気の緩みがなく、かといってガチガチになるわけでもない。昔から大人だった。
精神面の一段のスケールアップがうかがえるのが、直近のワールドカップ(W杯)2戦の逆転勝ちだ。
2月1、2日のオーストリアでのW杯連戦。1戦目は1回目トップのマヤ・ブティッチ(スロベニア)を逆転して優勝。2戦目も1回目にダニエラ・イラシュコ(オーストリア)に後れを取りながら、2回目で鮮やかに逆転勝ちした。
1回目からトップに立ち、危なげなく逃げ切るに越したことはないが、劣勢からひっくり返したという実績を持ったことは本人にとって自信になるし、ライバルたちにとって脅威となるだろう。
安定した助走、ジャンプの生命線
いつも選手仲間で呼んでいるように「沙羅」と書かせてもらおう。沙羅は男子を含めて誰にも負けない長所を一つ持っている。それはアプローチ(助走)だ。
安定した助走こそが彼女のジャンプの生命線で、それが助走のスピードを生み、踏みきりのタイミング、角度、方向性、空中姿勢への素早い移行と、思ったように体を操作できることにつながっている。滑らかなジャンプの一部始終、そのすべての源がこのアプローチにある。
きちんと整備されたレールに沿って助走路を滑り下りるだけなのに、どこか難しいの? とみなさんは思われるかもしれない。
ところがこれが難しいのだ。何年選手をやっていても、永遠のテーマだ。毎年ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。
■玉乗りのようなバランス感覚
アプローチは重心の位置がぶれないことが肝心だが、なかなかうまくいかない。重心が前すぎたり、後傾したり。右足にかかりすぎたり、左足にかかりすぎたりという左右のブレもある。
これをうまくこなすには微妙なバランス感覚が必要で、サーカスの玉乗りをイメージしてもらうといいかもしれない。
実際、私たちはそういう練習を取り入れている。柔軟運動などにつかうバランスボールという直径1メートルくらいのゴムのボールがある。それに私は飛び乗ることができる。ジャンプの選手のみんながそこまでできるわけではないが、沙羅はそのくらいは朝飯前でできているはずだ。
バランスボールは慣れないと、座ってもいられないものだが、私はその上で立つことができる。それくらいのバランス感覚がないと、助走の完璧な滑りなど望むべくもないのだ。
■小さな体補って余りあるセンス
よく書かれているように沙羅はバレエの経験もあり、それが抜群のバランス感覚をもたらしているのかもしれない。とにかく天才的で、あのアプローチはまねできないと、我々男子選手もため息をもらしているのだ。
今季W杯13戦10勝、"負けた"試合でも2位が2回、3位が1回と表彰台を逃していないのは安定したアプローチのたまものだ。助走がしっかりしているから、踏みきりのタイミングを逃すことがない。
助走路の抵抗や空気抵抗の関係で、助走のスピードは体重の重い選手の方が出やすい。また大柄な選手は長いスキーをはけるので、板に乗ったときの安定度という点でも有利だ。
152センチ、45キロの沙羅には不利なことだらけなのだが、それを補って余りあるだけのセンスをもっている。
女子のジャンプ界全体をみると、まだまだ発展途上にあるともいえる。踏み切りにしても、一気に台を蹴って跳ぶというより、ただ通りすぎているだけのようにみえる選手がほとんどだ。まだまだ非力なうえに、力を伝え切れていない。
■速く鋭い踏み切り、決定的な違い
沙羅も力強さという点ではもう少しという面があるが、他の選手とはやはり違う。通りすぎるなかでも、その動作が速く、鋭い。ここが決定的に違う。助走がスムーズだから、空中姿勢が一発で決まり、踏みきりで体を起こしながらも、空気抵抗を最小限に抑えて、前に進めるのだ。
今の沙羅に勝てるのはけがをする前のサラ・ヘンドリクソン(米国)だけだ。つまり現在の選手にはいない。
強いてライバルを挙げると30歳のベテラン、イラシュコあたりか。バネが強く、一発がある。安定感があるとはいいがたいが、当たったときは怖い。カリナ・フォクト(ドイツ)、ブティッチらもメダル候補になるが、条件が同じなら沙羅の比ではない。
■競技中のけが、恐怖心を生む
さて、転倒によるけがからほぼぶっつけ本番の形で五輪に臨む米国のサラはどこまで跳んでくるだろう。
状態がわからないが、同じ大けがをした経験がある者としていえることが、1つある。競技中のけがは知らず知らずのうちに、恐怖心を生む。"飛ぶ"といっても、ジャンプは高所から落下する運動だから、怖くないわけがない。
私は複合選手だった2007年の世界選手権でスキーの留め具がはずれて転倒し、大けがをした。割合早く復帰できたものの、国内大会では恐怖が先に立ち、うまく跳べなかった。ところが海外遠征に入り、W杯に出ると前半の飛躍でトップに立てた。開き直れたというのか、大会に臨む気持ちの高ぶりによって、恐怖が消えていたのだ。
サラがどれだけ回復しているか分からないが、五輪という舞台が全てを変える可能性はある。すくなくとも故障の恐怖を引きずることはないはずだ。
沙羅ともう一人、忘れてならないのが私の同僚の伊藤有希(19、土屋ホーム)だ。W杯でも入賞しているように、力はある。練習だけみていると十分メダルを取る力がある。
■空中姿勢うまい伊藤、メダル取る力も
空中姿勢がうまく、向かい風を与えられたときの伸びは天下一品だ。2、3段高いゲートから出るというわずかのハンディをつけただけで、私の飛距離を超えていくことがよくある。
ジャンプは向かい風が有利といわれ、事実その通りなのだが、おいしいはずの向かい風が抵抗にしかならない選手もなかにはいる。向かい風を額面通りに生かせるのはそれだけでも貴重なことだ。
W杯になると力が入るのか、なぜか本来の持ち味が出なくなる。ふだんでも遅れ気味の踏みきりがどんどん遅くなってしまう。「普通に飛べればいいんだよ」と言っているのだが……。
伊藤にとって風や天候の良しあしが、大きなポイントになるのは間違いない。そして無敵の存在といえる沙羅といえども、天の気まぐれという運命から逃れることはできない。
■風の当たりはずれ、今も昔も
今はそのときどきの風の有利不利を勘案して、得点を調整している。しかし、その計算はなかなか複雑で、我々選手にとってもどれくらい救われたのか、にわかにはわからない面がある。
風による不公平感が多少は減ったが、昔よりはマシというだけのことで、風の当たりはずれがなくなったわけではない。むしろ得点調整のルールを導入してから、大会の運営側は「これなら文句はないでしょう」といわんばかりに、多少風のばらつきがあってもどんどん飛ばせて、試合を進行させる傾向もある。選手としてはかえってビクビクもの、ということになっているのだ。
沙羅が初の女王になるかどうか。たぶんソチの空だけが知っている。
(ソルトレークシティ、トリノ、バンクーバー五輪代表)