池田政権の幕引きを仕切る
「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(4)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
前尾繁三郎が自民党幹事長を退任して2カ月ほどたった1964年(昭和39年)9月初め、副幹事長の大平正芳が渋谷区松濤の前尾邸を訪ねた。「池田総理の病状がどうも怪しい。ガンらしい」という報告である。池田勇人は7月の総裁選の前後からのどの痛みを訴えていた。東大病院での診察で喉頭がんであることが判明した。当時、がんは本人に告知しないことになっていた。まして現職首相ががんであることを公表すれば大騒ぎになる。9月には国際通貨基金(IMF)東京総会、10月には東京オリンピックが控えていた。
オリンピック閉幕後の鮮やかな退陣
前尾は大平と協議して、9月7日のIMF総会の池田首相演説後に、築地のがんセンターに入院させることにした。池田本人には「がんではないが、最新の治療設備がそこにしかないから」と説明した。前尾は医師団に「がんであることは絶対に秘密にしてうそを言ってもらいたい。他日私が国民におわびするから」と要請した。同月25日、医師団は池田の病状について「前がん症状である」と発表した。
池田首相と一心同体である前尾は極秘裏に池田内閣の幕引きの準備に入り、退陣時期は東京オリンピック閉幕の翌日と定めた。10月6日、前尾はひそかに三木武夫幹事長、大平副幹事長と会い、こうした考えを伝えた。三木幹事長は「池田総理本人が退陣に納得するだろうか」と懸念を示したが、前尾は「それは私が引き受けるので、党内手続きを極秘裏に進めてもらいたい」と頼んだ。
前尾と大平は同月8日、がんセンターの比企能達総長と会い、「10月10日のオリンピック開会式には何も知らせずに元気に出席させてもらいたい。それが済んだら臨時国会も通常国会も出席は不可能だから、オリンピック終了直後に辞めるよう勧告してもらいたい」と要請した。比企総長は10月12日、池田首相に病気の現状を伝えた。「治療1カ月で経過は良好です。局所の上部はよくなって奥が見えてきました。これで放射線治療は約1カ月間やらねばならぬことになり、副作用も考えられます。ここ3、4カ月は声を使うことができません。治るには半年かかるでしょう」
池田が「死ぬ気でやったら(首相を)辞めなくてもいいのではないか」と尋ねると、比企総長は「とんでもない。医師として生命をかけるようなことはおすすめできません」と答えた。池田は「一体、誰がこの話を仕組んだのか」と聞いた。比企総長は「前尾さんと大平さんです。8日にお二人に会って相談しました」と伝えた。池田は「そうか。それなら2人に任せよう」と述べて進退を前尾・大平に委ねる決断をした。
池田退陣の動きはオリンピック開会中は完全に秘密が保たれた。閉会式の翌日の10月25日、池田首相は病床に河野一郎国務相、川島正次郎副総裁、三木幹事長、鈴木善幸官房長官を招いて退陣の意向を伝え、鈴木官房長官と三木幹事長によって直ちに発表された。鮮やかな引き際であり、世論もこれを称賛した。後継総裁の選任は川島副総裁と三木幹事長が党内調整にあたり、これを踏まえて池田総裁が指名する手続きが決まった。佐藤栄作、河野、藤山愛一郎の3人が名乗りを上げた。
不発に終わった藤山一本化構想
党内情勢は佐藤に有利だった。首相経験者は吉田茂、岸信介だけでなく、石橋湛山も佐藤を支持した。田中角栄蔵相―大平副幹事長のラインも池田から佐藤へのバトンタッチに動いていた。財界主流も佐藤を強く支持した。川島副総裁は表向き河野に好意的な態度をとりながら内心は佐藤と決めていた。三木幹事長も大勢に順応して佐藤支持に傾いていた。しかし、河野は「池田は必ずオレを指名するはずだ」と強気であった。河野は池田3選に際して体を張って奮闘し池田に恩を売っていた。池田から何か言質を取っているかのようなそぶりを見せた。
劣勢の河野と藤山は「どちらが指名されても互いに協力する」との連合の盟約を結んだ。こうした情勢をみて前尾はひそかに藤山一本化工作を進めた。池田首相が病床に三木幹事長、大平副幹事長を呼び「藤山ということも考えてみてくれ」と伝えたのは、前尾の進言に基づくものだった。前尾は後に「党内は佐藤でも、河野でも分裂する危険があった。藤山さんを立てて、私たちが全面的に押していかなければいかんと考えていた」と述べている。
前尾は河野と親しい船田中衆議院議長と会い「佐藤には政権を渡したくない。そうかといって、党内の大勢は、池田に河野を指名させるのは不可能になっている。この際、河野が立候補を辞退して藤山擁立に回れば、池田が藤山を指名する可能性が強まる。ついては、この情勢を河野に伝え、立候補を断念するよう河野を説得してもらいたい」と頼んだ。船田は河野と会って前尾の話を伝え、候補者から降りるよう説得した。
河野は「一晩考えさせてほしい」と述べたが、結局、前尾構想を拒否した。河野は読売新聞・渡辺恒雄記者に「私が降りれば、池田は藤山を通り越して佐藤を指名してしまう。池田は私には義理があるが、藤山には義理がないからね。前尾は私に直接言わないで船田さんを使い、ペテンにかけようとしているのだ」と断言した。調整役の川島副総裁は当初から藤山一本化構想には冷淡だった。三木幹事長は池田首相の意向を聞いて初めは心を動かしたが、次第に手を引くようになった。
池田裁定の前日夜、河野派は「川島が必ず河野に持ってくると言っている」との情報を得て意気軒高だった。藤山派の頼みの綱は前尾である。藤山派幹部の江崎真澄は未明になってようやく泥酔した前尾を捕まえて情勢を聞きただした。「河野に決まったのか」「アリマセン」「藤山か」「アリマセン」「それでは佐藤か」「ソンナコトイエナイ。厳秘ダヨ」
前尾の藤山一本化構想は不発に終わった。11月9日午前7時、川島副総裁と三木幹事長は病床に池田首相を訪ね、「党内の大勢は佐藤支持である」と報告し、後継総裁に佐藤を推薦した。池田は「河野君には気の毒だが、佐藤君に決まってよかった」と述べて、同席した大平副幹事長が用意した裁定文の空欄に佐藤栄作の名前を書いた。前尾は同日朝、江崎を通じて藤山に「自分の力が及ばなかった」との意を伝えた。藤山は後に「前尾さんは初めから藤山一本で親身になって尽くしてくれた」と述べている。
池田勇人の遺言
佐藤内閣は官房長官を鈴木から橋本登美三郎に代えただけの「居抜き」の形で発足した。党副幹事長は大平から瀬戸山三男に交代した。池田は同年12月初旬に退院し、いったん自宅に戻った後、熱海で静養につとめた。病状は快方に向かっているように見えた。池田の病状がひとまず落ち着いたので前尾は1965年(昭和40年)2月、肋骨を一本半とる膿胸の大手術をした。手術後の経過は順調で間もなく元気を取り戻した。同年6月の佐藤内閣の最初の改造人事では池田の推薦により自民党総務会長に就任した。鈴木が厚相に入閣し、佐藤首相は池田派に配慮を見せた。幹事長には田中が蔵相から回ってきた。
この改造では佐藤と河野の意見が衝突して河野は閣外に飛び出した。そしてその直後の7月8日に河野が急死した。葬儀に参列した池田は「さぞ残念だっただろうな」と悼んだ。その池田も同月16日の検診でガンが広範囲に転移していることが判明し、手術のために同月29日、東大病院に入院した。
入院当日の朝、池田は信濃町の私邸に前尾、大平、鈴木の3人を呼んで後事を託した。「もうオレの声は出なくなるかもしれない。これが最後の声になるかもしれないから3人ともよく聞いてくれ。宏池会は保守党のバックボーンだから、これから先も結束を保って、バックボーンにふさわしい政治行動をしていってくれ。オレに万一のことがあった時は、前尾君を中心にして、大平、鈴木両君は前尾君を助けてやってくれ」
池田は続けてこう言った。「自分も国民を甘やかした政治をしてしまったが、佐藤君もそうなりつつある」「前尾、田中の時代が来るだろう。前尾君はPRをしないのが良いところだが、もっとすべきだ。黒金(泰美)、宮沢(喜一)ともに心配だが、よくできる人物だから育てていってくれ」。これが池田の遺言になった。池田は大手術の後、8月13日に死去した。同時にがんであったことが正式に発表された。=敬称略
(続く)
前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」(74年日本経済新聞社)
前尾繁三郎著「政の心」(74年毎日新聞社)
伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(66年至誠堂)
藤山愛一郎著「政治わが道」(76年朝日新聞社)
大平正芳回想録刊行会編「大平正芳回想録・伝記編」(82年同刊行会)