「聖地」で車いすマラソン 白熱のリオ代表争い
サッカーで「聖地」といえば、取り壊された旧国立競技場(東京・新宿)が思い浮かぶ。埼玉スタジアム2002(さいたま市)ができるまでは、木村和司のFKがゴールに突き刺さった日韓戦(1985年)など、日本代表がワールドカップ(W杯)予選で数々の名勝負を繰り広げてきた舞台で、その称号に異を唱える人は少ないだろう。
ラグビーなら西の花園ラグビー場(東大阪市)か、東の秩父宮ラグビー場(東京・港)かで迷うところだが、軍配は東にあがるか。日本代表が71年にイングランド相手に3-6と大接戦を演じた試合、89年にスコットランドを28-24で破り、初めて主要8カ国から勝利を挙げた試合など、記憶に残る熱戦がここであった。
■今年で35回目、のべ1万人が参加
では、障害者スポーツで「聖地」と呼べるところはあるのか? 11月8日、来年のリオデジャネイロ・パラリンピックの代表選考レースとなった国際車いすマラソン大会が開かれた大分市は、間違いなく「聖地」といえる場所だろう。
大会が始まったのは81年。日本の「障害者スポーツの父」といわれる故・中村裕博士が、国際障害者年の記念行事として、大分県庁などに働きかけて第1回大会が実現した。
国立別府病院整形外科科長だった中村博士は60年に英国に留学、パラリンピックの源流となった脊髄損傷者によるスポーツ大会を開いていたストーク・マンデビル病院で学び、障害者スポーツの重要性に気づく。帰国後、64年の東京パラリンピック開催に奔走して自ら日本選手団団長に就任。75年にはアジアや南太平洋諸国の障害者スポーツの祭典「フェスピック(現アジアパラ競技大会)」を創設し、続いて地元大分で手掛けたのが大分国際車いすマラソン大会だ。
障害者に働く場を提供する社会福祉法人「太陽の家」も設立した中村博士の功績については稿を改めたいが、第1回大会は14カ国から117人が参加し、ハーフマラソンを走った。第3回大会からフルマラソンの大会となり、35回目の今年は19カ国から283人がエントリーした。30年以上の歴史をもつ車いすマラソン専用の大会は世界でもここだけで、昨年までの参加者はのべ1万人以上にのぼる。
■沿道の地域住民もコース清掃協力
7日にあった開会式からしてユニークだった。競技場や体育館で行うのが一般的だが、会場は大分駅前の中心商店街にある広場だった。多くの買い物客が集まる中で選手宣誓があり、その後選手たちは車いすに乗ってアーケード内をパレードする。それが終わると、広場に即席記者会見場がしつらえられて、報道陣と有力選手が一問一答。例年の恒例行事だというから、大分市民は間違いなく、日本で一番、パラ(障害者)アスリートに接する機会が多いと思う。
歴史が積み重なれば、街全体が優しくなる。主催者の大分県障害福祉課の広瀬幸一郎さんによると、大会に携わるボランティアや関係者は約2000人。ところがそれ以外に、毎年大会近くになると沿道の地域住民らがコースの清掃活動に乗り出し、選手のために露払いをするという。そうした勝手連的なボランティアは「把握していないが、かなりの人数がいる」と広瀬さん。
選手にとってそんなホスピタリティーあふれる大会の人気は高かったが、実は参加者数は2000年前後の400人台から年々減っていた。交通事故の減少で車いす陸上に取り組む脊髄損傷者自体が減った上、パラアスリートのプロ化が進み、00年に車いす部門を設けたニューヨークシティー・マラソンと日程が近く、賞金のない大分を敬遠する選手が出てきたのだ。
■賞金額引き上げでトップ選手参加
そこで10年の第30回大会は記念大会として1位50万円、2位30万円、3位10万円の賞金制度を初めて導入、世界記録を出した場合のボーナスも50万円と設定した(翌年からは1位30万円、世界記録20万円と減額)。ただいかんせん、1位に1万5000ドル(約185万円)を出すニューヨークやボストンに比べると太刀打ちできない。選手の減少傾向は止まらず、昨年は233人まで減った。
広瀬さんによると、「トップアスリートは賞金目当てで、生活の糧として調整してくる。段違いに額が少ないので見向きもされなかった」という。「環境はいいけど、賞金がねえ」との声も聞こえてきた。このため、今回一気に賞金額を引き上げた。1位100万円、2位50万円、3位30万円とし、ボーナスも世界記録100万円、日本記録50万円に増額した。「トップ選手が来てくれる大会とし、それによって一般の参加者も走ろうと思ってくれれば」と広瀬さん。
効果はてきめん。今年のエントリー数は前回を上回り、男子で昨年の世界ランクトップ10のうち8人がやってきた。前回は4人だった。大会で3度の優勝経験があり、5年ぶりの参加となった世界ランク1位のエレンスト・ヴァン・ダイク(南アフリカ)は記者会見で開口一番、「プロの時代へようこそ!」と賞金増額を歓迎。「20時間も飛行機に乗る長旅が好きだから来るのではなく、プロとしてお金を払ってもらえるから来るのだ」と強調した。
■障害者スポーツにもプロ化の波
パラアスリートが賞金稼ぎ、という語感に違和感を覚える向きもあるかもしれない。だが、健常者スポーツのプロ化の波が、何年か遅れで障害者スポーツにも訪れただけで、障害者スポーツがきちんと、「スポーツ」として認識されつつある証左ととらえたい。中村博士が大分国際車いすマラソンをつくった時にこだわったのも、大会は親善ではなく、力や技を競う「スポーツ」であることだった。
第1回大会では、先頭を走っていたオーストリアのゲオルグ・フロイントと米国のジム・クナウブがお互いの健闘をたたえ合い手をつないでゴールした。しかし中村博士は両者優勝を認めず、写真判定をしてフロイントを1位、クナウブが2位と決めた。両選手は怒ったが、中村博士は譲らなかった。同博士の長男で、「太陽の家」の中村太郎理事長によると、「大会は福祉じゃない、スポーツだ」と力説していたという。
今年の大会はトップ選手が多数参加、さらに日本人選手にとってはリオの代表選考レースとなったこともあり、白熱した。
■49歳のベテラン、山本が代表切符
「レーサー」と呼ばれる、象の鼻のような特殊な三輪車いすを使う車いすマラソンは、自転車競技と同様、先頭に立つよりも、その後ろで風をよけながらこぐと6~7割の力でついていけるので有利だ。ゆえに、誰が先頭に立つか、どういう順序で先頭をローテーションするかの駆け引きがある。ただ、リオ代表に選ばれるために男子は1時間27分以内にゴールしないといけなかったので、けん制しあってばかりではタイムが伸びない。
これまでなら大会5連覇中のマルセル・フグ(スイス)が早々と独走してゴールテープを切ったのだが、今回は日本人選手も積極的に飛ばして入れ代わり立ち代わり先頭に立ち、上りや下りで誰かがしかけるとすぐに追いつくという展開が37キロ付近まで続いた。結局そこからフグが振り切って6連覇を達成し、49歳のベテラン、山本浩之が1時間25分2秒で日本人トップの2位となってリオ出場権を獲得した。
沿道で見ていた大分の人々にとって、目の前でデッドヒートを演じた選手たちは、「障害者」ではなく、普通の「アスリート」としか映らなかっただろう。まさに「スポーツ」だったのだ。
(摂待卓)