錦織、「体格差の壁」越えて準優勝 全米テニス
日本テニスの草創期には伝説の名選手が存在した。慶大出身の熊谷一弥は1918年の全米で4強、20年のアントワープ五輪では日本勢初の表彰台となる銀メダルを獲得。東京高商(現一橋大)を出た清水善造は20年のウィンブルドン・チャレンジラウンド決勝(現在の準決勝にあたる)に進んだ。早大の佐藤次郎は30年代、四大大会の4強に5度も入りながら、26歳の若さで自ら命を絶った。当時は世界でも日本でもテニスはまだ一部の人たちがプレーしている状態だった。
戦後、再び日本は世界に挑戦を開始したが、足取りは苦しい。55年、全米でダブルスの宮城淳・加茂公成組が優勝した。しかし、68年にテニスがオープン化(プロ解禁)してからは競技人口が増え、世界の厚い壁に阻まれ続けた。男子では神和住純や日本では珍しい強力サーブを持つ松岡修造が奮闘したが、松岡がウィンブルドンで95年に8強入りしたのが目立った成績だった。欧米の選手には190センチを超えるビッグサーバーも次々登場し、日本人男子の体力では上位に食い込むのが不可能とまでいわれていた。
体力にそんなに差がない女子は男子がヒッティングパートナーを務めれば、海外で修業しなくても世界に通用するといわれる。伊達公子(現クルム伊達公子)は四大会で3度の4強、世界ランクも4位まで上がった。中国の李娜は11年全仏、14年全豪と2度の優勝も勝ち取った。
13歳から海外で修業するなど、国際経験を積んだ錦織は、マイケル・チャンという名伯楽も得て、アジア男子初の決勝進出を勝ち取った。100年に一人という素質はもちろんだが、日本人、あるいはアジア人でも鍛え方、育て方をきちんとすれば世界に通用することが証明できたことが大きい。
沢松和子が日系米国人のアン清村と組んで、75年のウィンブルドン女子ダブルスで優勝したときは、女子の四大大会タイトル初制覇で大きなテニスブームが起きた。錦織の全米準優勝という快挙は、日本の男子テニスのあり方を変える革命にもなるかもしれない。
(島田健)