世界の錦織、始まりは父のハワイ土産のラケット
父・清志さんのハワイ土産のラケットが、錦織がテニスを始めたきっかけだ。当時5歳。スポーツ好きな家族の楽しみから始まり、1年後には松江市のグリーンテニススクールに入った。
当時から、フルスイングしてもボールを的に当てた。高低に加え、緩急までも「ラケットで自由に表現できる。特にゲームセンスがすごかった」と同スクールの柏井正樹さんは振り返る。子供では相手にならず、大人が練習相手だったほど。「正直、(同世代で)テニスが一番うまかったから、ずっとテニスで生活していこうと思っていた」と錦織は話す。
■アカデミー卒業、初の日本人
テニスは世界ツアーが戦場だ。日本で行われるツアー大会は男子で1大会、女子では2大会だけ。ほかはツアー下部大会であり、国内を転戦しただけでは世界ランキングは上がらず、賞金も稼げない。世界ツアーでは欧米の様々な選手のクセ球、強烈な自己主張などにも負けずに適応しないと生き残れない。
日本テニス協会会長だった盛田正明さんが立ち上げたテニスファンドの支援を受け、錦織は迷うことなく渡米した。
フロリダ州には、錦織やマリア・シャラポワ(ロシア)が巣立ったIMGアカデミーだけでなく、いくつものテニスアカデミーがあり、世界トップを夢みて各国の子供たちが集う。
子供たちはアカデミーの指導だけでなく、練習試合を繰り返すことで腕を磨いていく。錦織のいたアカデミーでは1年ごとに評価され、将来の見込みがないと判断されると、奨学金を打ち切られる。実は、錦織はアカデミーを卒業できた初めての日本人だった。
■私生活ではつらい経験も
テニスの腕を磨くうえで最高の環境にあったから耐えられたものの、「テニス以外ではいろいろあった」。錦織は多くを語らないが、私生活ではつらい経験もしたようだ。ただ、両親に電話してくることはなかった。「コートに立つと、我が子かと思うほど、怖くなる。自立心が強くなりすぎちゃった」と清志さんは苦笑いする。
コートを離れた錦織は自己主張が強いタイプでない。むしろほんわかした性格の持ち主だ。ストロークで相手を圧倒する果敢なプレースタイルとは大きなギャップがある。
■トップ選手、練習相手に指名
こうした柔らかな人当たりからか、トップ選手にも目をかけられた。ジュニア時代からロジャー・フェデラー(スイス)、ラファエル・ナダル(スペイン)から、よく練習相手に指名された。
チリッチとの準決勝敗退後、フェデラーが「初めて一緒にプレーした彼が17歳のころから、大変な才能だと思っていた。僕も2度負けたし、ナダルを圧倒したこともある」と、錦織について語った。外国メディアが驚くほどに褒めたのも、テニスの実力だけでなく、それだけかわいげがある人柄だったからかもしれない。
(原真子)