華やかなシャラポワ、雑草魂でテニス界生き抜く
女子テニスの元世界ランキング1位、四大大会通算5勝のマリア・シャラポワ(ロシア)が33歳の誕生日を前に、ラケットを置いた。華やかな風貌で一般的な認知度も抜群に高く、ライトなテニスファンを会場に引き寄せたシャラポワ。女子テニス界への貢献は計り知れない。
2000年、日本テニス協会会長だった盛田正明さん(現名誉顧問)はIMGアカデミー(米フロリダ州)を初めて訪れた。そこで紹介された有望選手の一人が12歳のシャラポワ。帯同していた元プロの坂井利郎(日本テニス協会副会長)らとダブルスをすることになった。「日本の知らないおじさんには軽く勝てると思っていただろうに、こっちが勝っちゃってね。これが最初の思い出」
それから数年後に再訪すると、マネジャーのマックス・アイゼンバドさんとやってきて、「ジャパン・オープン(現楽天ジャパン・オープン)のワイルドカードをください」とお願いされた。盛田さんは即OKした。
02年は1回戦敗退。盛田さんがしゃぶしゃぶ店に連れて行くと、「こんなおいしいものがあるのかって喜んでね。以来、好物を聞かれるとしゃぶしゃぶなんだ」。03年はジャパン・オープンでツアー初優勝。その翌年には17歳でウィンブルドン選手権を制し、一気にスターダムに乗ったものの、「来年も来る」の言葉を守り、04年ジャパン・オープンに出場して連覇を果たした。
その後もたびたび試合などで来日。原発事故直後のチェルノブイリ近くで母親が彼女を身ごもっただけに、東日本大震災直後の反応も早かった。シャラポワにとって「日本は意味のある」ところ。お気に入りの日焼け止めも日本製で、来日のたびに買いだめすると話していた。
若さの勢いで好結果を出して脚光を浴びるものの、「一発屋」で終わるケースが女子テニスでは多い。シャラポワがすごかったのは注目され続けただけでなく、04年以降、ゆうに10年以上もトップ10をキープしたことだ。その間、06年に全米オープンを制覇し、08年には全豪も勝った。肩の手術で10カ月近く離脱した後に12、14年と全仏を制し、「キャリアグランドスラム」まで達成した。
ナイキ、コール・ハーン、ソニーエリクソン、エビアン、ポルシェ……と、多くのスポンサーを引き寄せ「最も稼ぐアスリート」の一人になっただけでは終わらなかった。「その会社の一員にもなりたい。ブランドと仕事をするとたくさんの経験をさせてくれ、勉強になる」と、靴やかばんのデザインの仕事に乗り出し、「SUGARPOVA」というキャンディー会社を設立。「現役アスリート兼ビジネスウーマン」という分野を切り開いた一人でもあった。
華麗なキャリアから受ける印象と異なり、テニス界で受けが良かったとは言いがたい。ベースラインから強打を打ちまくる超攻撃的なプレーは荒々しく、打つたびに出る「フゥ」という声は「うるさい」とよく批判された。ただ、どんなに劣勢でも最後まで試合を投げ出さず、冷静さを保つ。その闘争心は際立っていた。
セリーナ・ウィリアムズ(米国)とキャロライン・ウォズニアッキ(デンマーク)など、選手同士が仲の良さをアピールする時代にあって、シャラポワは「戦う相手だから」と、ロッカールームで友達をつくろうとすらしなかった。それは10代の頃から徹底しており、孤高を保った。
もっとも、テニスから離れたシャラポワに話を聞いたときは、コロコロと表情が変わり、ケタケタとよく笑った。試合後の記者会見とは別人だった。母親、友達などの話題が次々と出てきて、テニス漬けでない、豊かな生活が想像できた。「肩をケガしたときに気づいた。テニスはキャリアであり、全力を尽くすべきものだけれど、うまくいかなくてもがっかりしちゃいけない。見方を変えれば、人生にはほかにも大切なものがあって、友達や仲間が助けてくれるんだって」と、説明してくれた。
キャリアで唯一の汚点は16年1月のドーピング違反だろう。16年から常備薬が禁止薬物リストに入ったが、いつもは確認するアイゼンバドさんが当時、離婚直後で見逃してしまった。しかし、シャラポワは彼の元を離れなかった。スポーツ仲裁裁判所に提訴。「国際テニス連盟はリストの変更を的確に説明していない」などとして、2年の出場停止期間が15カ月になり、17年4月に復帰した。
復帰後のシャラポワは四大大会で8強入りが1度だけ。世界トップ20位以内には戻れなかった。肩の痛みに苦しめられたが、愚痴は一切もらさなかった。18年全米で4回戦負けした際、「厳しい状況ですね?」と聞かれて、ムッとした表情で応じたシャラポワは忘れられない。
「あなたわかる? 数百ドルの所持金と夢しかなくて、将来の見通しもたたない10代を『厳しい』と言うの。何でもやりたいことができる31歳の私ではない」
6歳の時、四大大会18勝のマルチナ・ナブラチロワ(米国)に褒められた言葉を信じた父と即、渡米。雑草魂で生き残った人間のたくましさがあった。
(原真子)