一家で五輪出場の室伏由佳さん ケガ・病気が襲う
陸上投てき 室伏由佳(4)
中京大学4年生のシーズン終了後、室伏由佳(42)はハンマー投げに挑むことを決意する。指導する父、重信(74)は技術だけでなく精神面でも娘を支えた。そして本格的に練習を始めてからわずか5年で2004年アテネ五輪への出場を果たす。兄、広治(45)を含めて一家3人で臨んだ五輪で、さらなる努力を誓った由佳だったが、ケガと病気が立ちはだかった。(前回は「ハンマー投げに挑む室伏由佳さん 父は待っていた」)
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1998年、中京大最後の1年が始まると、父・重信の指導はまるで乾いたスポンジが水を吸わせるように、アスリートとしての由佳の資質を目覚めさせた。重信は当時、由佳についてこんな話をしている。
「体格的には、決して恵まれてはいません。ただ、感覚的な部分で良いものを持っている。センスは、技術の再現性が求められる投てきでは有利だと思う。ハンマー投げはまだまだこれからですが、由佳のセンスに期待をしています」
量ばかりを追った自己流から、父との二人三脚でもっとも重要と指導されたのは動きの質である。由佳は振り返ってこう話す。
「父の指導を受けるようになって、自分が今何を求めているのかを常に考えるようになったと思います。よく、心技体と言いますよね。さらに、思考が重要なんだと理解できたんです」
広治を含めて、室伏家は常に思考を象徴する単語として、「動きの質」を、優勝やメダルの結果に喜ぶ以上に重んじた。そしてこの言葉が、世界に名だたるアスリート一家の「鉄の絆」であり、由佳が加わり、それは一層強く、より厳しい関係となっていった時期でもある。
父は言葉を慎重に選んだ
競技会に出場するたびに、世界的にも例のない競技力を持った一家にマスメディアの大きな注目が集まる。こぞって求めるのは、難しい技術論よりも親子関係をより強調できるような、ほのぼのとしたエピソードの方だ。
しかし重信は、「2人にとって父親であるからこそ、安易にかけた言葉を子供たちがより重く受け止める可能性がある」と、自らを律し、メディアに発信する言葉を慎重に選んだ。先に指導を受けていた広治が、父を継承する新鉄人の道を歩き出したころ、こんな光景がよく繰り広げられた。観戦していたスタンドから広治のもとへ移動すると、テレビカメラも含めメディアが殺到する。
「優勝した広治くんにどんな言葉をかけてあげますか?」
「ご自身の記録を息子さんが超えられた、父としてのお気持ちは?」
どちらも「本当によくやった」、あるいは「息子を誇らしく思う」といったコメントを期待してのものだ。しかし重信はいつも表情を変えず、こう切り返した。
「広治にですか? そうですね、回転軸がブレていた、でしょうか」
こうした技術論となると、メディアは肩透かしに合ってしまう。これ以上、「どんな言葉をかけてあげたいですか」などと生温かな質問など重ねられないからだ。当時、重信がメディアに対していつも技術論で子供たちを語ろうとした理由は想像できる。オリンピックを目指す2人の強固な防波堤になろうとする、父の決意の表れだったのかもしれない。過度な注目、期待、自分の存在がプレッシャーにならないように。
技術の指導だけではなく、こうした環境における強いサポートを背景に、由佳は4年生で円盤投げの記録を再び更新し、日本インカレでも4連覇を達成する。シーズンが終わると、自ら「ハンマーをやってみたい」と父に打ち明けた。99年、翌2000年のシドニー五輪から女子ハンマー投げが正式種目に加わるが、そこには時間が足りない。ターゲットは04年アテネ五輪となった。
父の助言から、安易に投げるだけの練習はせず、入念に動きの基礎を固める。アテネ五輪の選考会となる04年の日本選手権、まず初日の円盤投げで3連覇、5回目の優勝を果たす。しかし五輪の参加標準記録には及ばず、勝負は最終日のハンマー投げだった。04年に入ってハンマーの記録は一気に2メートルも伸びていた。一家が初めてそろって出場できるかどうかの瀬戸際、由佳はさらに記録を伸ばして66メートル12で、自己ベスト更新、大会新記録、同種目で初の日本選手権制覇と大きな成果を手にした。しかし五輪参加標準記録B(64メートル)を超えても、世界で戦えるレベルかどうかを基準に、日本陸連は第1次選考での選出をいったん見送った。
兄と父の励まし、記録伸びる
「もうダメなのか、と落ち込んで眠れない日が続きました。けれども、兄は、チャンスは絶対につかまないともったいないよ、と励ましてくれ、父は、記録はまだ伸びると自信を与えてくれた。技術面でも精神的にも重心が定まり、記録会にチャレンジすると、自分でも驚くほど記録が伸びました。代表に選ばれたと連絡を受け、一気に緊張が解け、涙があふれました」
記録会で66メートル68の日本記録を初めて樹立し、04年だけでも4メートルも記録を伸ばした記録向上率を評価され陸上の代表最後の1枠を手にした。一家にとって6度目、日本の五輪史上初となる兄妹の五輪出場もかなった。
8月、さらに自身の日本記録を伸ばして67メートル77をマーク。参加標準記録Aを突破し、世界と堂々肩を並べる記録でアテネへ向かった。
いつもなら緊張して迎える試合の日、あれほどわくわくし、同時にすがすがしい気持ちでスタートを待っていた経験はなかったと、由佳は言う。スタンドのコーチ席で自分を見守ってくれる父の姿を見つけた時、表現できないような深い感動に包まれた。1984年、重信が出場した最後の五輪、ロサンゼルスのスタンドで、兄と2人で並んで父を応援した自分が驚くほど鮮明によみがえったからだった。
「父と自分の場所が入れ替わったような不思議な感覚でした。あの時の父と逆になったんだ、これがあの時父が立った舞台だったんだ、と涙があふれそうな感動を味わいました。誰も入れない、私だけのカプセルにいるような集中力も実感しました。決勝進出(上位12人)はできませんでしたが(27位)、自分の可能性を最後の最後まで追い求め、力を出し切ってあのスタジアムに立った。予選を終えてスタジアムを去るとき、この経験を絶対に忘れてはいけない。競技者として何があっても努力を続けよう、と誓ったんです」
社会人となった99年(ミズノ入社)、本格的にハンマーを始めてわずか5年での五輪出場は、技術習得にさえ7、8年はかかるとされるこの種目では驚異的な進歩だった。指導を求めてきた際に重信が見込んだ「センス」は確かだった。パワーの不利を、繊細で複雑な技術の習得で乗り越えて五輪出場を果たす。娘、妹と、いつも「属性」で語られていた自身を、オリンピックは室伏由佳という一人の強靱(きょうじん)なアスリートに変えてくれた。
04年の日本選手権で初めて円盤、ハンマー両競技で優勝し五輪を経験した後、05年、08年、09年、10年まで5回もダブル優勝を達成。過去にも例のないキャリアを築くアスリートとなり、重信のハンマー投げ同選手権10連覇、広治の同20連覇、に肩を並べる。アテネで「努力を続けよう」と誓ったオリンピック出場が、円盤での同選手権12回優勝、ハンマーでの同5回優勝、合わせて17回優勝という偉業を成し遂げる原動力にもなった。
深刻なケガと病気に襲われる
しかし、真摯な努力は体への負担も強いていた。順調に見えた競技歴の陰で、深刻なケガ、病気が進行していた。アテネが終わり、重圧から解放されるはずの05年1月、突如、腰の激痛に見舞われた。整形外科で「急性腰痛症」と診断を受けたが、そもそもの原因は究明されないまま、時には歩行もできないほどの痛みに襲われる日が続く。レントゲン、さらに詳しい検査で磁気共鳴画像装置(MRI)は撮影したものの、関節に起きていた重大な障害を見つけるには至らなかった。
原因不明の状態は、痛みをさらに辛いものにした。何とか競技を続けていても、体のバランスは崩れる。そうしている間に、今度は利き手である右肩に神経障害が出てしまう。
投てき選手として決して恵まれてはいなかった体格で、長い間、円盤、ハンマーの両方で回転軸を定め負担をかけた分、体が悲鳴を上げ始めていた。腰の関節、肩の神経に続いて、婦人科での重大な疾患も判明した。
03年に、子宮内膜ポリープを切除したが、腰痛、肩の痛みに耐えるのに精いっぱいで定期健診などへの気が回らなかった。経験のない激痛に婦人科に駆け込むと、子宮内膜症が判明し、破綻していると診断された。どうしてそれほどの痛みに耐えられるのか、一般的には理解できない。しかし耐えてしまうのも、トップ選手ゆえの性(さが)である。
初のオリンピックから順調な競技人生を描くはずだったが、由佳の前に、ケガと病気という厚い壁が立ちはだかった。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1977年、静岡県沼津市生まれ。中学時代に短距離選手として陸上競技を始め、市邨学園高校(現・名古屋経済大学市邨高校)で円盤投げに転向する。進学した中京大学では日本インカレを4連覇するなど活躍。21歳からハンマー投げにも取り組み、世界でも珍しい投てき2種目を専門にする。2004年アテネ五輪にハンマー投げで出場するも決勝には進めなかった。世界選手権には05年にハンマー投げで、07年には円盤投げで出場した。10年アジア大会ではハンマー投げで銅メダルを獲得。ただ長年、腰痛などに苦しみ、2度目の五輪出場は果たせず12年9月に引退した。円盤投げは日本選手権を12度制し、58メートル62センチの記録は日本歴代2位。ハンマー投げは日本選手権で5度優勝し、67メートル77センチは現在も日本記録。父はハンマー投げで五輪4大会代表となり、アジア大会を5連覇した「アジアの鉄人」こと重信氏。兄は同種目でアテネ五輪金メダリストの広治氏。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部講師のほか、聖マリアンナ医科大学などの非常勤講師を務める。日本アンチ・ドーピング機構アスリート委員。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。