ハンマー投げに挑む室伏由佳さん 父は待っていた
陸上投てき 室伏由佳(3)
室伏由佳(42)は中京大学時代、円盤投げで日本ジュニア記録を樹立し、日本インカレで優勝するなど実績を重ねた一方、自己ベストが更新できず伸び悩んだ。同じ大学で指導する、「アジアの鉄人」と呼ばれた父、重信(74)に反発し我流でトレーニングを続けていたが、深刻なスランプを抜け出すため、ついに父の指導を受けようと決める。重信は娘をずっと見守り、自分から問いに来る日を待っていた。父の指導を受けると、由佳は円盤投げの記録を更新、封印していたハンマー投げにも挑戦することになる。(前回は「鉄人の娘・室伏由佳さん、我流で投てき続けた理由」)
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日本を代表するアスリート一家の一員ゆえに、室伏由佳は父・重信に反抗した。父の指導を拒み、「練習量こそ全て」と、我流で中京大でのキャリアを終わろうとしていた。4年の最終シーズンを前に、円盤投げジュニア記録(54メートル12)をマークして以来自己記録が全く伸びない深刻なスランプに悩み、先輩に打ち明けた。客観的でシンプルな答えが心に響いた。
「先生に聞かなくてもいいの?」
中京大陸上部の投てき部門を男女とも束ねて指導していた重信に、由佳だけが指導を受けようとしない様子をずっと見ていたからだ。第三者に初めて意地を張っているだけでは解決しないと指摘され、目が覚めるようだった。同時に、焦りにも似た感情が湧きあがってきたという。
「このまま終わってしまったらもう取り返しがつかない。お父さんに聞かなきゃ」
記録が頭打ちになった崖っぷちで、由佳は世界一級の技術を生み出してきた「秘密基地」とも呼べる自宅書斎の扉をたたいた。何を指摘されるのか、もしかすると怒られるのではないか、と怖かった。しかし重信の態度は予想とは全く違った。
「だから言ったじゃないか」
「最初からお父さんの話を聞いていれば、こんなスランプもなかったはずだ」
そうは言われなかった。
「父は最初に、そうか待っていたぞ、とばかりに、私にこう言ったんです。今からだって、いくらでも伸びる方法はあるんだよ、と。その言葉に、あれほど父の指導を拒み続けた理由は何だったのだろう、ずっと見てくれていたのに私は何をしていたんだろう、と自分を省みて、気持ちがスーッと落ち着いていくように思いました」
「だから言ったじゃないか」と、親子間の感情的な言葉をかけられれば、娘はまた反発したに違いない。ところが重信は、感情的な話はせず、由佳にとってはむしろ一番難しいともいえる方法で、スランプに陥った理由を認識させようとした。
父は娘の練習をずっと見ていた
「質より量」とした我流のトレーニングメニューをひとつひとつ確認しながら、次々と質問が飛んでくる。量を重視するあまり、3年間取り組まなかった「論理性」についてだった。
「このウエートはどうしてやるのか?」
「この腹筋の回数の根拠は?」
「どうして背筋をこんなに行うのか?」
「父は本当にメニュー全部について、私に説明させようとするんですよね。でも、当時の私には答えられませんでした。トレーニングをしていなければほかの投てき選手に比べて体も細く、体力も十分ではない。まして貧血も抱えていましたから、疲労が蓄積しやすく、それが抜けにくい。指導を拒んでいる間も、父は私をずっと見ていてメニューを分析していた。とにかくディスカッションをすべきなんだ、自分の考えを説明した上で指導を受ければいいのだ、と分かりました。書斎を訪ねた日の会話は、父としても指導者としても、今でも忘れられません」
この時気付かされたのは、アスリートとして重要な2つの態度だった。高い目標を設定し、そこを目指して量を信じてトレーニングを積む。結果につながったように見えたが、根拠、理論は持てなかった。記録が止まってしまった理由である。
もう1点は、目標とトレーニングをつなぐブリッジ役でもある、指導者の意見を取り入れる姿勢だ。由佳は振り返る。
「いい指導者と言われますが、それは、選手がいかに指導者に対して的確に自分の状態を伝えられるか、その両方向で成り立つものだと思うんです。父の書斎に行ってからは、自分のやっている練習や現在のコンディションを指導者に正確に伝えられるようになりました。今、自分がどういう状態で何を欲していて、どんな答えが得られないのかを知り、伝える。これがトップ選手としても大切なんですね。父に教わりました」
4年生で自己記録の更新、さらにハンマー投げへの復帰、その先に見えたオリンピック。快進撃への準備は整った。
世界に名だたるアスリートファミリーの柱・重信は、陸上部で数十人を指導する生活を20年以上続け、2011年に中京大(名誉教授)を退職。ベースだった愛知県豊田市から都内に移り住んでいる。娘と息子の広治(45)、その両方と付かず、離れずの距離だ。
冬場、授業後の練習は遅い時間まで続く。現場に立って、選手を見る。それを貫いた重信にも厳しい毎日だった。
「本当に体がしんどいんですよ。冬場は特に寒くて、寒くて……。帰宅するとちょっとだけ飲んで体を温めて風呂に直行しているんです」と、かつて、指導の厳しさをそんな本音で表現したことがある。退職後、不整脈による「心房細動」のためカテーテル手術を受け、長い現役時代を支えた背骨の古傷、腰のヘルニアに苦しみ、携帯用の椅子を持ち歩いていた時期もある。しかしさすがは鉄人、現在は回復し趣味のゴルフを楽しんでいる。
鉄人「指導者は医者に似ている」
運動能力に恵まれ、才能にあふれた息子と娘の指導は重信にとってももちろん簡単なものではなかった、と振り返る。
待つ、これを流儀とする指導法において、指導者は医者に似ている、という。
「指導者は医者のように、具合が悪くなってきた選手に、適切な助言と回復の処方を与えて元気にしなくてはならない。特に私の場合は、2人の父親であり、同じ競技者でもある難しさがありました。私が何気なく発した一言を、子どもだからこそ重く受け止め、それを負担に思わないよう、自分を律しましたね」
由佳が、「量こそ全て」と信じ込んでいた練習法も、実は重信も経験済みだった。現役の頃、高度成長を背景に、スポーツ界もまた、練習、スパルタ、と量を尊重する時代だった。10時間かけて、ハンマーを300本投げ、体を壊しかけた。今のように映像はない。手本となる技術が手もとで学べるなど考えられなかったのだから、量は上達に重要な手段だったともいえる。
しかし娘の体は案じていた。いつか質問に来る日まで、その時どう治療を施し、どんな処方箋を出すのか、常に考え、待ち続けた。 同時に、優しい父でもあった。
娘が、自分に反発をしていた時期、新聞に掲載される名前と結果だけの記事、10行にも満たない娘の紹介文、写真、これらどんな小さな記事でもスクラップブックに丁寧に貼り付けていた。娘、息子の何十年にもわたるスクラップブックは、引退した2人に手渡している。
由佳が自分で質問に来た日から、重信は、シドニー五輪から陸上の正式種目に加わった「女子ハンマー投げ」で、次のアテネ五輪を狙えるのではないか、と考えていた。
4年生最後の競技会で、6投目に54メートル90を投げ、自己ベストだったジュニア記録を更新する、円盤投げの学生新記録をマーク。これをきっかけに、由佳は「もう一度ハンマーをやってみたい」と、4年前に封印していた父、兄と同じ種目への挑戦を初めて自分の意志で選択する。
父はまたも「待って」いた。
1999年、卒業しミズノへの入社が決まっていた当時、ハンマーへの挑戦を口にすると同時に3段階のプランを与えられた。
円盤とは体を回転する技術が異なっており、まずは基礎練習から始まった。ハンマーを投げず、動きとイメージを徹底的に体に覚えさせる。次にフットワークを正確につくりあげる。ほかの選手たちが本数をこなすのを見ながら、3カ月もの間、地道な練習を続けた。
04年アテネ五輪に向かって父と娘の目標も、その道筋も決まった。室伏ファミリーにとって6度目の五輪は、由佳、広治、重信と、一家3人がそろう最初で最後のオリンピックになる。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1977年、静岡県沼津市生まれ。中学時代に短距離選手として陸上競技を始め、市邨学園高校(現・名古屋経済大学市邨高校)で円盤投げに転向する。進学した中京大学では日本インカレを4連覇するなど活躍。21歳からハンマー投げにも取り組み、世界でも珍しい投てき2種目を専門にする。2004年アテネ五輪にハンマー投げで出場するも決勝には進めなかった。世界選手権には05年にハンマー投げで、07年には円盤投げで出場した。10年アジア大会ではハンマー投げで銅メダルを獲得。ただ長年、腰痛などに苦しみ、2度目の五輪出場は果たせず12年9月に引退した。円盤投げは日本選手権を12度制し、58メートル62センチの記録は日本歴代2位。ハンマー投げは日本選手権で5度優勝し、67メートル77センチは現在も日本記録。父はハンマー投げで五輪4大会代表となり、アジア大会を5連覇した「アジアの鉄人」こと重信氏。兄は同種目でアテネ五輪金メダリストの広治氏。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部講師のほか、聖マリアンナ医科大学などの非常勤講師を務める。日本アンチ・ドーピング機構アスリート委員。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。