鉄人の娘・室伏由佳さん、我流で投てき続けた理由
陸上投てき 室伏由佳(2)
投てき種目を選んで中京大学に進学した室伏由佳(42)は、ハンマー投げのレジェンドである父、重信(74)、兄、広治(45)と、名だたるアスリート一家の一員として望まない注目を浴びる日々に苦しんだ。実力も経験も十分でなかったために、同じ大学で指導する父が隣にいるというのに、アドバイスをいっさい受けず、それどころか反発した。周囲がうらやむ環境とは裏腹に、「鉄人の娘」、「広治の妹」と属性で語られる苦悩にもがいた若き姿をつづる。(前回は「室伏由佳さん、投てき『鉄人一家』に生まれた苦悩」)
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1995年、室伏由佳は中京大に進学した直後の6月、専門の女子円盤投げと、当時世界選手権や五輪に向かって正式種目に加わると見込まれていた女子ハンマー投げで日本選手権に出場した。前年、17歳で出場した円盤投げは10位から7位に順位を上げ、手応えを感じた。ところが初めて出場したハンマー投げでいきなり3位と日本最高峰の大会で表彰台に上がってしまった。
本来ならば「しまった」などと表現すべき結果ではなく、さすがサラブレッドと呼ぶべきである。しかし由佳にとって、チャンレジ感覚で投げたハンマーで味わったある種の違和感が、「闘い」の始まりを告げる合図となってしまったのである。
この時、兄・広治もまた、日本選手権初優勝を果たして、大きな注目を浴びる。「鉄人」の後を継ぐ息子がついに日本選手権を初めて制し、ハンマー投げの親子鷹(だか)が五輪を狙うとなれば十分な話題性がある。ましてそこに妹が加わるのだ。完璧な鉄人ファミリーとその親子のドラマを、メディアが放っておくはずもなかった。
「私は私なのに……」
「翌日から全ての記事には、鉄人の娘、新鉄人の妹、と私の名前の前には必ず何か看板が、それも私は少しも望んでいない属性がまず書かれている。私は私なのに……それが嫌でした。ですからこう決めたんです。もう二度とハンマー投げはやらないって。報道の写真にも絶対に3人で撮影されないように、って、いつもカメラの位置を確認していたんです」
由佳は当時をそう振り返って、こっそり隠れるしぐさをしながら笑う。実際に、一家3人が競技場でそろってフレームに収まっている写真も、優勝などで記念撮影に応じているようなカットも見つからない。大学1年、由佳は種目を円盤に絞り、ハンマーからは早くも「引退」してしまった。
愛知県豊田市立保見中3年時には、100メートルと走り高跳び、砲丸投げと「走る」、「跳ぶ」、「投げる」を組み合わせた「3種競技」で、全国中学陸上5位に入賞。抜群の陸上センスは周囲に知れ渡っていた。市邨学園高校に進学してからは、円盤投げで少しずつ実力を付けていく。
中京大に進み、父・重信が同大学の投てきブロックの指導者として毎日グラウンドに立っているというのに、助言は求めなかった。メディアが「属性」で由佳を語ろうとする現象と、競技で指導者としての父からアドバイスを受けるかどうかは本来、別の話だったのだが、18歳にそんな器用な選択などできなかったに違いない。意地もある。加えて、父と兄の存在に対する周囲のやっかみにも似た感情も、「絶対にハンマーはやらない。私は私のやり方を貫く」とした思いを、さらにかたくなにした。
「あなたはいいわよねぇ。ここでアドバイスを受けなくたって、ウチに帰れば先生がいらっしゃるんだもの」
「あなたになんて絶対に負けないから」
「ハンマー投げはやらないでね」
出る杭(くい)は打たれるという。しかし大学に入ったばかりの由佳は「出る杭」などではまだなかったうえに、結果を出していない。これから出るかもしれない、とみる周囲の勝手な期待感だけで打たれてしまう。陸上が好きで、投てきの技術をマスターしていくプロセスに魅了されて競技を続けてきただけなのに、「入学してすぐ、まるで心の芯がポキッと折れちゃったように、自分の存在を否定されている気がしました」と、今でもつらそうに話す。
自分でも消化し切れない苦悩を、円盤投げに全てぶつけた。
当時はとにかく練習あるのみ。量をこなす練習こそ競技力向上への最短距離だと思い込んでいた。きゃしゃな体格で投てきを選んだ娘を心配する重信が、「そんなトレーニングは記録の向上とは関係がないよ」と、そっと声をかけても、聞く耳など持たない。何より、結果が出ていたのだから「質より量」の我が道を突き進むだけだった。
大学1年の全日本インカレで優勝すると、翌年は初の大舞台「世界ジュニア」でも6位に入賞し、日本ジュニア記録(54メートル12)を樹立する。日本選手権でも初めて表彰台に(2位)立つなど、大学3年までインカレ3連覇、日本選手権でも続けて2位となり、円盤投げの第一人者の座を揺るぎないものにした。一方で、ジュニア記録をマークして以降、なぜか自己記録が更新できなくなった。
記録伸びず、悩む
「本当に記録が1センチも伸びず、ピタリと止まってしまった。頭打ち、そういう閉塞感に襲われました。でも父に何か質問したら、だから最初からトレーニングが間違っていると言ったじゃないか、と怒られそうで怖かったのかもしれませんね。4年生最後のシーズンが始まる頃でした。ここで何かを変えなかったら、私、この記録で引退するんだろうか。丸3年間、一体何をやっていたんだろうと悩んで、先輩に相談してみたんです」
先輩は由佳のトレーニングを毎日見ながら、その真面目さも努力もよく知っていた。しかし、重信が「疲労をためてはいけない」「やみくもに練習の量を追求するより、質を考えなさい」と、自分たちに指導する理論とは異なっている点にも気付いていたのだ。
「ものすごく練習をしていると思うけれど、先生のお話は聞かなくていいの?」
父のトレーニング理論には全く耳を貸さず、我流で突き進んだ結果、成績は残したが記録は止まった。先輩のこんな言葉にハッとさせられ、取り返しがつかないのではないかと焦燥感に駆られた。こんな時、人は「藁(わら)をもつかむ」と表現するものだが、由佳が競技人生で初めてつかもうとしていたのは藁どころか、オリンピックという港に真っすぐ進むクルーザーだった。
重信は、由佳の記録が止まる日がいつ頃なのか、その原因も見通していたという。
72年のミュンヘン五輪からロサンゼルス五輪まで4度のオリンピックに選出され(モスクワ五輪は不参加)、自身もハンマー投げの選手とは思えないほど小さな体で42歳まで現役を全うした。経験を基に、記録とトレーニングの関係は、研究者としても科学的に裏付けている。重信が独自に生み出した4回転のターンは、トップ選手たちにもできない、世界中で称賛される技術でもあった。正しい動き――室伏家は常にこの言葉でパフォーマンスを評価する。
正しくない動き、をやみくもに続けようとする娘に自分から無理やり声をかけても、何の意味もない。一つでも質問に来る日を3年間待ち続ける。重信は指導の極意を「待つこと」と定義する。
何日も悩んだ由佳は、ようやく覚悟を決めて父の書斎の前に立った。ドアをノックするだけなのに緊張して、なかなか手が動かない。コン、コン、と2度ノックすると中から父が言った。
「何だ? 入りなさい」
ずい分と重く感じられた扉の向こうに、父だけではなくオリンピックも待っていたのだと、由佳にはこの時、まだ分からなかった。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1977年、静岡県沼津市生まれ。中学時代に短距離選手として陸上競技を始め、市邨学園高校(現・名古屋経済大学市邨高校)で円盤投げに転向する。進学した中京大学では日本インカレを4連覇するなど活躍。21歳からハンマー投げにも取り組み、世界でも珍しい投てき2種目を専門にする。2004年アテネ五輪にハンマー投げで出場するも決勝には進めなかった。世界選手権には05年にハンマー投げで、07年には円盤投げで出場した。10年アジア大会ではハンマー投げで銅メダルを獲得。ただ長年、腰痛などに苦しみ、2度目の五輪出場は果たせず12年9月に引退した。円盤投げは日本選手権を12度制し、58メートル62センチの記録は日本歴代2位。ハンマー投げは日本選手権で5度優勝し、67メートル77センチは現在も日本記録。父はハンマー投げで五輪4大会代表となり、アジア大会を5連覇した「アジアの鉄人」こと重信氏。兄は同種目でアテネ五輪金メダリストの広治氏。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部講師のほか、聖マリアンナ医科大学などの非常勤講師を務める。日本アンチ・ドーピング機構アスリート委員。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。