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パラ教育で偏見なくす 元金メダリストが子供に託す夢

IPC教育委員・マセソン美季さん(人間発見)

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東京パラリンピックまであと1年を切った。国際パラリンピック委員会(IPC)教育委員のマセソン美季さん(46)は、子供の教育にパラを取り入れようと奔走している。世界共通の教材を作成し、日本を含む各国の学校に活用を働きかける。根底には、交通事故で車いすを使うようになった後、長野大会で金メダルをとった経験がある。障害に対する偏見や差別をなくすのが夢だ。

◇   ◇   ◇

パラリンピックというと、大半の方が「障害のある人」を思い浮かべるのではないでしょうか。障害という言葉には「かわいそう」とか「大変そう」といった先入観がつきまといます。

でもパラの選手たちは障害を言い訳にしません。できないことにこだわらず得意なことを伸ばしていけば、一体どんなことができるのだろうという、人間の可能性にこそ注目してほしい。そう考えて「アイムポッシブル(私はできる)」という教材を作りました。

公益財団法人、日本財団パラリンピックサポートセンター(パラサポ、東京・港)の支援があったから実現できました。IPCの公認教材として、日本はもちろん、全世界で使ってもらいたいです。

 教材は3つの部分からなる。まずパラの競技や歴史を学び、次にパラの価値を考え、最後に共生社会について理解を深めるという構成だ。

障害のある人をかわいそうと思っていた子供も、パラの選手を知れば「すごい」「格好いい」という羨望に変わります。固定観念を崩したところから、新しいアプローチが始まります。

たとえばパラの選手が学校に来るとしたら、どう迎えればいいかを問いかけます。競技場ですごい力を発揮した選手が、外では階段や狭い通路に行く手を阻まれます。選手の立場で身の回りのバリアを見つけだし、解決策をみんなで探ります。

パラ競技のルールを学んだうえで、公平についても考えます。クラスに車いすの子がいて、みんなで玉入れをするにはどうするのがいいか。答えは一つでありません。みんなで、車いすの子の意見にも耳を傾けます。

 結婚を機にカナダで暮らしていたが、東京パラの開催に合わせて、日本で教育に関わる仕事をすると決心した。

子供のときから先生になりたくて、カナダの小学校で教えていました。選手として出場した経験からパラの価値も知っています。これらをどう融合させるか、ずっと考えてきました。

私がけがをして一番嫌だったのは、車いすに乗っているだけで、自分は何も変わっているつもりはないのに、偏見とか差別の対象になることでした。

それはどこから来るのか考えていたら、人権教育啓発推進センター理事長だった故・横田洋三先生が「教育です」とずばっとおっしゃいました。親から子供、先生から生徒に教える以外に「無言の教育」もある、と。大人から刷り込まれて子供は育っていく。私がすべきことは教育だ! ビビッと来ました。

交通事故で重傷、車いすに

 1973年、4人姉妹の次女として東京都で生まれた。幼いころから体を動かすのが大好き。将来は先生になるのが夢だった。

何の影響かまったく覚えていないのですが、ほかの子が人形ごっこをしているときに、先生ごっこをしていました。ウサギとタヌキのどちらが多いでしょうといった問題を作って、妹たちに解かせていたそうです。

どんな先生になりたいか具体的に見えてきたのは、中学のときの体育の授業です。運動が苦手で見学ばかりしている子がクラスにいました。陸上のハードルも怖くて立ちすくんでいたのですが、2つ連続で跳んだとき先生が「すごい!」と、まるで自分のことのように喜んだのです。それをきっかけに、その子は体育が好きになりました。

衝撃的な出来事でした。スポーツが上手な子を育てるのではなく、スポーツが好きな子をつくれる体育の先生になろうと心に決めました。

部活動は水泳に打ち込み、主将も務めました。でも高校では柔道部に入りました。卒業生に柔道・五輪メダリストの田辺陽子さんがいて、高校時代に柔道に出合ったと知ったからです。白帯をつけて「受け身から教えてください」という状態からでしたが、1年生から3年連続で都大会で準優勝しました。

 教師になる夢をかなえるため、93年に東京学芸大学に進んだ。柔道部にも入り、さあこれからという1年生のとき、交通事故に遭う。

10月の早朝、いつものように柔道の朝練に行くため、自転車で家を出ました。交差点で、信号が青に変わるのを待って横断歩道を渡り始めたときです。目の前に、ダンプカーが突っ込んできました。

後に聞いたところによれば、私の体は20~30メートル飛ばされ、ダンプカーの下敷きになりました。脊髄損傷で下肢は完全にまひ。両方の肺がつぶれ、自分で呼吸もできません。生きているのが不思議なほどの重傷でした。

手術後しばらくは頭や顔はもちろん手も動かせなかったため、意思疎通ができず、自分の身に何が起きたかを正確に知ることができませんでした。「もう歩けないんだ。好きだったスポーツができなくなる」。そう思って落ち込みました。

ようやく車いすに乗れるまで回復してきたとき、強烈な違和感に襲われました。自分のなかでは立って歩くか車いすで移動するかだけの違いなのに、車いすに座ったとたん周りの人の目や態度が変わるのです。

痛々しいものを見るような、腫れ物に触るような感じです。聞きたいことがありそうなのに、「これ聞いたら失礼かしら」とのみ込んでいる。踏み込んではいけない領域を勝手に決められていて、会話もぎこちない。車いすの持つ威力、偏見のようなものをすごく感じました。

入院して半年たったころリレハンメル冬季パラリンピックが開かれていて、主治医の先生が記事を見せてくれました。「うちを退院した子も出場しているよ」と言われましたが、そうかと思っただけで、あまり関心を持てませんでした。

陸上に夢中「私は私のままだ」

 車いすに乗る現実を受け入れられず、周囲の偏見にも苦しんだ。転機は、入院中に体育館で車いすバスケットボールをしている人たちを見かけたことだった。

すごい! かっこいい! と思いました。けがするまで「車いすはかわいそう」とか「大変そう」というイメージが、自分にもあったんだと思います。そもそも障害について考えたことがありませんでしたから。

車いすに乗っている人を、そうしたポジティブな言葉で表現するということが、私にとっては斬新でした。自分のなかで安心したというか、「ああ、こういうのもありなんだ」と思ったことは、すごく覚えています。

「車いすマラソンの記録は普通のマラソンより速い」と聞き、車いすで陸上競技を始めました。初めて走った400メートルがなんと長かったことか。立って走るより速いスピードで、風を感じたかったのです。

異例でしたが、入院中に自動車免許も取りました。「退院してすぐ活動できるように、教習所に通わせてください」と先生を説得して、外出許可をとりました。

 1年半の入院生活が終わると大学に復学した。同時に陸上競技に本格的に取り組むため、経験のある指導者と車いすの仲間たちがいるクラブに入った。

大学には温かく迎えてもらいましたが、車いすに乗っているのは私だけだったし、エレベーターなどの環境も整っていなかったので、障害を意識させられることもたくさんありました。

でも走っているときは、そんなことを考えずにすみます。速くなりたい、強くなりたい、それにはどうしたらいいんだろうと、昔と同じ思考回路でいられるのです。私のコアのアイデンティティーは変わっていない、私は私のままなんだと再発見できました。

練習を重ねるとともに記録も伸びて、いつしか夢は世界、パラリンピックに向かうようになりました。

 1998年の長野冬季パラに向け、有望な選手の発掘が始まっていた。アイススレッジ・スピードレースの練習を見に来ないか、と人づてに誘われる。スケート刃がついたそりに乗って両手でストックを突いて滑る競技で、なじみはなかった。

とにかくリンクが寒くて、早く切り上げたかったのですが帰るわけにもいきません。体を温めたいと思い、「私にもやらせてください」と監督に頼みました。やってみたら全然できないんです。子供のときからどんなスポーツもさほど練習しないでそこそこできたのに、まっすぐ滑ることさえできません。悔しくて必死に練習し、どうにか前に進めるようになったころ、調子に乗ってみんなの前でぐんぐんスピードを上げました。そうしたら「転べ、転べ」と言われて。止まり方を知らなかった私は、リンクの先のアスファルトに乗り上げました。

そりの刃はぼろぼろ。監督から「この刃がいくらするか知っているか? もう、やめるわけにいかないぞ」と言われて、思わず「はい」と答えていました。

長野パラで金、夢の力知る

 厳しい練習のかいあって、長野冬季パラリンピックのアイススレッジ・スピードレース代表に選ばれた。500メートル、1000メートル、1500メートルの3種目で金メダルをとった。

最初のレースは100メートル、最も得意な種目でした。子供のころから緊張とは無縁だったはずなのに、スタート地点に立った瞬間に頭のなかが真っ白になりました。気がついたらゴールしていて、銀メダルでした。

表彰式に向かうときは「これで、お世話になった方に報告できる」と考えていました。ところが金をとった隣のノルウェー選手が私を見て、にんまり笑ったのです。くそーっという悔しさがわき上がってきました。

その日は500メートルのレースもありました。ほかの選手はストレッチしたり音楽を聴いたりして時間を過ごしていましたが、私は昼寝をしました。慌ててトレーナーが起こしに来るまで、ぐっすり眠ったのです。

夢のなかで、私は理想のレースをして金メダルを取っていました。だから目が覚めたときには、「絶対に大丈夫」という自信があって、とても落ち着いてレースに臨めました。そして、思い描いた通りの滑りで金メダルをとることができたのです。

振り返ってみれば、以前は体育の先生になるという夢がありました。けがをしてからは夢を見つけられない時期もありましたが、パラに出る夢ができてからは、何があっても頑張ろうという気持ちになれました。夢の力はすごく大きいですし、「大きすぎる夢なんてない」と思えたことがうれしかったです。

 長野パラの年に東京学芸大を卒業。翌年、米イリノイ州立大の大学院に留学した。

日本で教育実習をして、体育教師の免状もとりました。でも周囲から「車いすだと採用してもらえない」と言われて、私も「そうなんだ、仕方ない」とあきらめました。留学は親に反対されないように先回りして、自分で奨学金を探しました。

イリノイ州立大はパラスポーツの最先端にあります。そこで指導法を学んで、日本の障害のある子供たちに教えたいと思いました。日本では「危ない」とか「無理」とか言って、スポーツの機会を奪っているケースがあります。専門家になれば、子供たちを任せてもらえます。

同時に海外に自分の身を置いて、広く世界を見たり感じたりしたいという気持ちもありました。長野パラの前、遠征で初めて海外を訪れ、日本との違いを肌で感じていたからです。

たとえば北欧ではバリアフリーどころか、雪や氷によるバリアばかりで英語も通じません。でも私が困っているときには周囲の人が自然に近づいてきて、「じゃあね」とさらっといなくなる。助けてもらう側は心の負担がまったくなくて、すごく居心地がいいんです。

日本では「困っている」と意思表示して、初めて助けてもらえます。「すみません」という言葉が口癖になるほどです。障害は私にあるのではなく、社会がつくり出しているのではないか。そんな思いは、米国留学で確信に変わりました。

「障害」は社会が作り出す

 長野冬季パラリンピックの後、米イリノイ州立大の大学院に留学した。修了までの2年間は、驚きの連続だった。

最初トレーニングしようと思い、「私が使える障害者スポーツセンターはどこにありますか」と大学の窓口で聞きました。

「そんなものはない」

「どこに行けばいいのですか」

連れて行かれたのは、学生みんなが使っている普通のジムでした。「なんで、わざわざ分けるような面倒なことをするんだ?」と逆に問われました。

障害の重い学生が電動車いすでバーに行き、酔っ払って帰ってくる姿にも驚きました。私が日本にいるときは「どこなら行けるか」と消去法で考えていました。でも米国では「どこに行きたいか」が大事で、それが当然のように尊重されるのです。

 長野大会で出会ったカナダのパラアイスホッケー選手と再会。大学院修了の翌年に結婚し、カナダで暮らし始めた。2人の子供ももうけた。

カナダではいろんな仕事をしました。「何やりたい?」と聞かれ「昔は先生になりたかったんだけれど車いすだからね……」と答えたら、「え? 何が問題なの」と驚かれました。小学校の先生は7年やりました。英語で細かなニュアンスを伝えられるようになるため、銀行の窓口で働いたこともあります。

カナダでは障害を意識することはほとんどありません。でも日本に帰ってくると、そのたびに「そういえば私、障害者だったんだ」と気づかされます。

駅のホームでは、エスカレーターをいったん止めて「ご迷惑をおかけしています」というアナウンスが流れることもあります。バスに乗り降りする際は、運転手さんがそのたびに席を外してスロープを渡す必要があります。

お年寄りも子供連れのお母さんも、あるいは重い荷物を持った人も、だれもが使いやすくすればいいのです。カナダのバスは自動でスロープが出てきます。日本では障害のある人を特別扱いすることが前提となっているところに、居心地の悪さの原因があるのだと思います。

 2016年から国際パラリンピック委員会(IPC)で、世界共通の子供向け教材の作成に取り組む。18年にはIPCの5人いる教育委員の1人に任命された。

大人には固定観念や先入観がついていることが多いです。でも子供の感覚や言葉はインパクトがあって、大人が気づかない視点を思い起こさせます。子供が大人になるまでに共生の概念を身につければ、世の中を変えていってくれるはずです。

20年の東京パラをきっかけに、それまで話題にも上らなかった問題があらわになってきました。バリアフリーをうたう施設が増えていますが、本当に使う人の視点で造られているかは疑問です。ホテルも車いすに対応した部屋はごくわずかです。

東京パラはゴールでなく、大事なのはその後です。私がおばあさんになって、「あのときをきっかけに日本は変わったよね」と言いたいですね。

(高橋圭介)

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