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同じ相手に3連敗 「負ける覚悟」から柔道伸びる

柔道 福見友子(3)

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柔道家、福見友子(34)は2007年世界選手権の会場で、ライバル・谷亮子(44、旧姓・田村)の優勝を見届け涙を流した。改めて谷の強さを感じ、オリンピックでの金メダルを目指してさらに厳しい稽古に臨む。今回は若手の台頭で12年ロンドン五輪の代表争いが激しくなるなか、崖っぷちに追い込まれながらも夢を諦めない日々をつづる。(前回は「柔道のきっかけは谷亮子さん 20年続いた巡り合わせ」

◇   ◇   ◇

代表選手ではなく「付き人」としてその場にいた福見友子は、人目の届かぬ場所で号泣していた。スポットライトを浴びる畳の上では、出産から2年ぶりに復帰し、世界選手権(07年、リオデジャネイロ)で実に7回目の優勝を果たした谷亮子が歓喜の涙を流している。

当時、福見が所属していた了徳寺学園監督・山田利彦は、「普段は感情など絶対に表に出さないのに……」と、教え子が初めて見せた姿に変化を感じ取っていたという。2人が同じ時に流していた涙の理由は、全く違っていた。

足りなかったものを突き付けられた

この大会の48キロ級代表の座をかけた選考会(全日本選抜体重別選手権)で、福見は決勝で谷を破って念願の初優勝を遂げる。翌年の08年北京五輪を狙うためにも、リオの世界選手権で貴重な経験を積み、五輪代表へ弾みをつけたい。そう願う周囲も選出を確信していたが、代表に選ばれたのは「外国人選手に強く、結果を出せる」(当時の強化委員会)谷だった。福見は別の選手のトレーニングパートナーとしてリオに入り、そこで、過去2度も勝利しながら越えられない、谷という壁と初めて日々向き合う機会を得た。

「あれほど感情があふれ出して泣いたのは初めてでした」

福見は、号泣した理由をそう振り返る。選考されなかった悔しさを目の当たりにしたからでも、谷の優勝で自らの北京五輪出場が遠のいてしまった失望感からでもなかった。

「世界選手権の代表になれず落胆はしました。でも、現地で谷さんが稽古し、優勝するのを見て、自分も同じように優勝できたのか? と問いただした時、自信を持って、できた、とは言えなかった。そんな弱い自分が代表としてここに立ってはいけなかったよね、むしろ自分を恥じようと思いました。足りなかったものを突き付けられ、涙があふれ出し……結局、あの選考は正しかったんです」

過去柔道界では例のなかった出産後の復帰に、谷もトップ選手としてまた苦しんでいた。そんななかにあって、「勝ちたい」ではなく「絶対に勝たなくてはならない」と、トレーニングから自らを徹底的に追い込み、すさまじいプレッシャーをあえて背負おうとする姿を知った。勝利を追求する強いメンタル、孤独感、常に世界を、外国選手を見据えて行う高度なトレーニング。どれも自分には備わっていなかった。

同時にふと思い出したのは、世界選手権代表に漏れた時、筑波大学監督の岡田弘隆と、女子を指導していた山口香の2人が地元で慰労会を開いてくれた夜のことだった。2人がまるで自分が落選したかのように失望し、泣いているのに、当の本人は「どうして私よりも、これほど悔しがって泣いているんだろう」と思った。谷の優勝をリオの会場の隅で見ながら、改めて、自分に期待を寄せてくれる周囲の存在がどれほど大きいか、それに何としても応えなければという思いをどこまで背負えるのか、世界の48キロ級で日本女子に義務付けられる勝利の重みや柔道への向上心、情熱、全てに取り組もうと心底思えた。流していたのは、反撃の涙である。

08年の北京五輪代表の座をかけた全日本選抜体重別選手権では、ケガが完治しないまま臨んだために敗退。代表にはなれなかったが、ここから12年ロンドンへ、激動の4年間が始まった。

常に世界を意識し、国際試合を増やし、大学に研修に来る外国選手たちとも積極的に稽古を積む。09年ロッテルダムで行われた世界選手権準決勝では、北京五輪で谷を下したルーマニアのドゥミトルに一本勝ちをおさめ、決勝も優勢勝ち。世界選手権初出場、初優勝を果たした。国際柔道連盟は北京五輪後、ポイント制を五輪出場資格のひとつに導入するなど選考方法も激変するなか、同じ階級には依然、谷が君臨し、浅見八瑠奈、山岸絵美が台頭し、ロンドンに向かっての代表争いはし烈を極めた。

10年、東京で行われた世界選手権に臨むも、決勝で浅見に敗れる。この年の夏、北京後、去就を明確にしていなかった谷が、国会議員と競技との両立は困難として引退を表明し、代表争いはいよいよ3人に絞られた。

11年4月、世界選手権選考をかけた体重別選手権準決勝で山岸に敗退。実績を買われてパリ世界選手権代表に選出されたものの、決勝で2年連続、浅見との直接対決に敗れてしまった。

「もう(ロンドン五輪は)終わりましたよね」

パリの会場の外で、了徳寺学園監督・山田に向って、そんな弱気な言葉をこぼしたのを覚えているという。

勝負の相手はライバルではない

ポイント制が加わったために、国内のライバルだけではなく常に国際大会で、外国選手を相手にする試合を想定してトレーニングをしなければならない。このため、体への負担もより大きくなる。

起死回生を狙って11月の講道館杯に挑んだが、準々決勝で敗れたうえに負傷。4連覇をかけ、ライバルとの直接対決に勝ってロンドンへのわずかな希望をつなごうと出場したグランドスラム東京大会で、またも浅見に決勝で敗れた。五輪を争う相手に直接対決で3戦連続敗退、しかもポイントが多く与えられるランキング上位の国際大会で敗れたのだから、計算上、もう望みなどなかった。リオの世界選手権で号泣してから、自分と、柔道に真正面から取り組んできたはずだったのに、夢の前年、「もう諦めよう」と考えた。

「思い切りは悪いんですが、でも……と踏みとどまった」と話す。

「でも諦めきれるのか。でも支援して下さった方々に、もう辞めます、と簡単に言えるだろうか。何より、でも、ここまでオリンピックを目指してやってきた自分に対して、この最後の一年にチャレンジしないまま、ハイ、辞めます、だなんて理由を説明できるんだろうか、と。辞めたいと思っている自分の後ろには、勝っても負けても、ケガをしても続けてきた柔道家の自分がいて……そういう自分に申し訳がない、そんな気持ちになったんです。ならば、最後までやり抜く道を選びました」

その瞬間ふと、負ける覚悟が決まったと思えた。勝負の相手とは、ロンドン五輪でも、代表をかけたライバルでも浅見でもない。自分なのだ。どん底で初めて、開き直るとはこういう感情なのだと知った。

それまでセルフコーチングとして、特定のコーチを持たなかったが、恩師である山口香から「1人で続ける限界もある。コーチを付けて客観的な目で力を貸してもらったらどうだろうか」と、助言を受けた。

了徳寺学園の小川武志に「ここで自分を諦めたくない」と、指導を依頼すると、小川は「自分に何かできるならば付き合う」と引き受けてくれた。指導されたのは、特別な技術ではなかったが、どれもシンプルで、欠点を見抜かれたような感覚を覚えた。特に、姿勢について指摘された。

重心が少し前に傾いているため、小川には畳に立った際の姿勢から不安定に見えたという。自分の態勢が安定していないため、技に入る際、視線が落ちてしまう。それが正確性やパワーを奪う結果につながる。

「目からウロコ、といった感覚で、頂くアドバイスはどれもすっと入ってきました。あぁ、これだけ長く柔道をやってきた自分にも、もしかするとまだ伸びしろがあるのかもしれないと思えましたね。浅見さんに負け続け、ロンドンの望みが消えたと思っていました。足元が見えているような恐ろしい崖っぷちにいるのに、なぜか伸びしろを実感し成長している。崖っぷちが楽しいと思える不思議な感覚でした」

高校生で谷に勝った直後からの時期を「低迷期」と、表現する。一方、五輪の可能性はほぼ消えうせてしまっていたこの約半年間を、福見は「柔道人生最高の充実期」と表す。常に何かを自らに問いかけ、答えを探ろうとするこうした探究心が、実は夢の流れを大きく引き寄せていた。

負ける覚悟を決めた福見と、年明けからポイントを守って順当に代表権を獲得しようとしていた浅見も、流れの分岐点には気が付いていなかった。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

福見友子
 1985年、茨城県土浦市生まれ。8歳から柔道を始める。土浦日大高校、筑波大学、同大学院、了徳寺学園職員と48キロ級で活躍する。得意技は背負い投げ、小内刈り、寝技。高校2年生だった2002年、65連勝中で日本人相手では12年間無敗だった谷(当時、旧姓・田村)亮子氏を破って一躍注目を集める。その後スランプに陥るが復活し、07年再び谷氏に勝利。谷氏に公式戦で2度勝った唯一の選手だ。日本一を決める全日本選抜体重別選手権は07、09、10、12年と4度制した。ただ1992年バルセロナ五輪から5大会出場した谷氏の壁は厚く、代表には縁遠かった。09年初めて世界選手権に出場して優勝。ようやく出場した12年ロンドン五輪では「金メダル確実」と言われながら5位入賞にとどまった。13年4月引退。1年間の英国留学などで指導者としての経験を積み、15年10月、JR東日本柔道部ヘッドコーチに就任、16年10月からは全日本女子代表コーチも務める。15年に結婚し現姓は今川、1児の母。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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