柔道のきっかけは谷亮子さん 20年続いた巡り合わせ
柔道 福見友子(2)
柔道女子日本代表でコーチを務める福見友子(34)が柔道に興味を持つきっかけは1992年バルセロナ五輪だった。女子の柔道を伝えるテレビの画面に目を奪われたという。そこで最も輝いていたのは、その後幾度となく福見の前に立ちはだかる谷亮子(44、旧姓・田村)だった。今回は福見が、48キロ級で君臨し続けた女王・谷との関わりの中で成長していく姿を描く。(前回は「ママでも五輪コーチ YAWARAちゃんに2度勝った柔道家」)
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7歳の女の子は、テレビで見るオリンピックに夢中になっていた。まだ柔道を始める前のバルセロナ五輪であるから、他にも興味を抱く競技はいくつもあったはずだ。しかし、くしくもこの大会から正式に新種目となった女子柔道に、福見友子はくぎ付けになっていた。
「こんな舞台で、体の小さな日本選手たちが活躍するなんてすごいなぁ」
瞬く間に魅了されたオリンピックと、そこで躍動していた、まさに「もっとも体の小さな女子選手」谷亮子(当時田村)、その2つの存在が、20年にわたり、自分の人生に大きく関わり、壮絶な戦いを繰り広げようと思うはずもなかった。
柔道に熱中していた様子に、母は翌年、「しつけや礼儀を覚えるためにも、武道を習うのがいいかもしれない」と、自宅近くの町道場へ娘を連れて行った。兄はバスケットボールをし、姉はクラシックバレエを習っている。末っ子ならどちらかに付いていきそうなものだが、兄とも、姉とも違う柔道を8歳は喜々として選択した。
「母は、体を動かすのが得意だった私を見ていて、これはクラシックバレエ向きではないな、と思っていたようです。私も畳の上ででんぐり返しをしたり、マット運動したりするのが楽しくって仕方ありませんでしたね。面白いことに、礼儀を身に付けるためにお稽古ごとに通っている感覚なのに、一方で、柔道でオリンピックに出て絶対金メダルを取るんだ、と、何も根拠がないのに強く思っていました」
柔道は、お稽古ごととして始めたと、福見は笑って振り返る。
指導をした土浦体育協会柔道部の柘植俊一は、ほかの子どもとは少し違い、懸命に考え、熱心に稽古に臨む姿に将来を予見していたようだ。通い始めた頃に教えられた技は背負い投げだった。
テレビで見た人の前に
地元土浦で進学した土浦第六中学校には柔道部がなく、母親が、同級生の母親と2人で校長に直談判し創部された。練習は、同級生の父親が監督を務めていた土浦日大高校で積む。すぐに頭角を現し、2000年、大分で行われた全国中学柔道大会で初めて優勝を果たす(48キロ級)。
翌01年にも、全日本ジュニア体重別で優勝。順調に戦績を重ね、48キロ級のホープとしても大きな注目を浴び始めるようになっていった。テレビの中の五輪にただ憧れていた少女は、バルセロナ五輪からちょうど10年後の02年、まるで運命の糸に導かれるかのように、谷亮子の目前に立った。
それも畳の上で。
02年の全日本柔道選抜体重別選手権(48キロ級)1回戦、土浦日大高校2年の4月、福見はシニア大会への出場をかなえ、1回戦で、当時00年シドニー五輪で悲願の金メダルを獲得するなど65連勝中、日本人に12年間負けなしだった無敵の谷と対戦する。その時の喜びがどれほどのものだったかを示すように、今でも少し顔を赤くし、高揚感を漂わせながら話す。
「まず、高校生で全日本に出られるだけでも難しいのですから本当にうれしかった。そして、世界一の谷さんと組める!と思っただけでもうドキドキしたのを覚えています。私にとって、雲の上の存在でしたから。ドキドキとワクワクと、いろんなプレッシャーを感じて試合に臨みましたね。試合内容のほうは本当に覚えていなくて。無我夢中だったんですね」
マスコミから注目、スランプに
ケガからの復帰戦となった谷に対し、大内刈りで効果を奪って勝利。しかし続く2回戦で敗れてしまった。本人は「ただ情けなかった」と、浮ついた気持ちなど一切持たなかったが、マスコミの注目は次世代のホープに集中してしまう。
「女王を破った女子高校生」
「アテネ五輪代表に向けて名乗り」
「ポスト田村」
マスコミのこうした過熱ぶりに、高校2年生の生活は一変してしまった。自宅や学校にまで取材陣が押し寄せ、通学路に張りこまれる。
「勝ったからといって、谷さんの実力には全く追い付いていないのに」と、誰よりも自分の力を冷静に分析していた16歳にとって、大金星は自信になるどころか、重い十字架のような存在に変わっていった。高校3年から筑波大に進学し約1年が経過するまでの時期、04年アテネ五輪は遠ざかり、高校生相手にも勝てず、若手にも抜かれる深刻なスランプに陥った。
福見はこの時期を「低迷期」と表現する。
「自分の本当の実力以上に評価されてしまうプレッシャーで、あの頃は自分の柔道を見失ってしまったんだと思います。地力が足りないのは分かっていました。自分よりも年下の選手にも抜かれていくようで、あぁ、自分はこのまま終わるんだろうか、と考えたこともあります」
ただし、五輪イヤーの代表選考会となる体重別選手権を経験するなかで、五輪選手だけが持っている「時計」の存在には気付いた。五輪に出場したい。そう願ったとしても、オリンピアンだけに宿る独特な体内時計、4年をサイクルに時を刻む時計を操らなければ、そこには辿りつけない。低迷期を脱出し、4年後の北京五輪を狙うため、福見は時計を動かした。
谷に勝つためではなく、世界への道筋を立てるためにまず日本一を目指す。国際舞台で活躍する選手を多く出してきた筑波大の環境も、柔道への取り組み方を変えてくれた。日々の練習や体調についても、詳細にノートに記すなど、大学3年になり、長いトンネルを抜けたと感じた時、またも谷が目の前に立っていた。
北京五輪前年の全日本選抜体重別選手権(07年)、長男を出産し2年ぶりに復帰した谷と今度は決勝で対戦。出足払いで有効を奪って、目標とした初優勝を果たした。やるべき練習をこなし、準備し、それらが形になった充実感は、5年前、1回戦で谷を破った時とは全く異なっていた。
大会はこの年秋に行われる世界選手権(リオデジャネイロ)の選考会でもあった。日本一で、初めて世界選手権の代表に選ばれれば、翌年の北京五輪に向けて貴重な国際経験を積める。そして世界選手権で上位に入り、北京五輪代表の座をより優位にする絶好のチャンスを手にできる。
しかし、世界選手権代表に選ばれたのは谷だった。全日本柔道連盟は、2人の直接対決の結果ではなく、谷の実績をより重視。「海外選手に強いのは谷。世界選手権では金メダルを取らなくてはならず、実績の谷を選んだ」(当時の全柔連強化委員長・吉村和郎)と、優勝者は選から漏れた。
世界選手権の会場で涙流す
選考会の、しかも直接対決で勝利しても選ばれなければ、どうすれば代表に選ばれるのか。北京五輪代表の座をかけた、翌年の08年体重別選手権で谷に勝ったとしても、実績は比べようもなく代表に選ばれる可能性は低い。この選考方法をめぐって論議も巻き起こるなか、福見は別の階級の選手の付き人としてリオデジャネイロに同行する。
「田村で金、谷で金、ママでも(五輪で)金」と、3大会連続での五輪金メダルを公言していた谷だったが、出産後、トップ選手と育児の両立は想像以上に困難だった。2年ぶりに復帰したばかりの年の世界選手権で、優勝のみを期待される。重圧とどう戦って畳に上がるのか。福見は、あこがれの柔道家の苦悩と、それを乗り越える強さを初めて間近で見る機会を得た。
谷が2大会ぶり7度目の優勝を果たす様子を会場で見ながら、人目の届かぬ場所で号泣したという。感動しただけでも、悔しさからでもなかった。谷にあって、自分にないもの。それが、目の前に突きつけられたように思えたからだ。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1985年、茨城県土浦市生まれ。8歳から柔道を始める。土浦日大高校、筑波大学、同大学院、了徳寺学園職員と48キロ級で活躍する。得意技は背負い投げ、小内刈り、寝技。高校2年生だった2002年、65連勝中で日本人相手では12年間無敗だった谷(当時、旧姓・田村)亮子氏を破って一躍注目を集める。その後スランプに陥るが復活し、07年再び谷氏に勝利。谷氏に公式戦で2度勝った唯一の選手だ。日本一を決める全日本選抜体重別選手権は07、09、10、12年と4度制した。ただ1992年バルセロナ五輪から5大会出場した谷氏の壁は厚く、代表には縁遠かった。09年初めて世界選手権に出場して優勝。ようやく出場した12年ロンドン五輪では「金メダル確実」と言われながら5位入賞にとどまった。13年4月引退。1年間の英国留学などで指導者としての経験を積み、15年10月、JR東日本柔道部ヘッドコーチに就任、16年10月からは全日本女子代表コーチも務める。15年に結婚し現姓は今川、1児の母。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。