太秦支えた最後の活動屋、西岡善信美術監督逝く
戦後の京都の映画制作現場を60年以上にわたって支えた美術監督、西岡善信さんが97歳で逝った。名実共に太秦最後のカツドウ屋だった。
学徒出陣、ソ連抑留を経て、1948年に大映京都撮影所入り。最初に付いたのが伊藤大輔監督「王将」だった。「映画の世界をまるで知らず、人に聞いたら、一番偉い監督は伊藤大輔さんだと教えてくれた」と語っていた。53年にはカンヌ映画祭グランプリを受賞した衣笠貞之助監督「地獄門」に美術監督、伊藤熹朔の助手として参加。実際の仕事は西岡ら若手に任され、巨大な門のセットのデザイン画も西岡が描いた。両巨匠にかわいがられ、京都映画界の本流である大映京都の本格的な映画美術を学んだ。
大映京都では伊藤、衣笠、森一生監督らの作品や市川雷蔵、勝新太郎の主演作を数多く手がけた。特に見事だったのは市川崑監督作品。「炎上」(58年)では燃え上がる金閣寺の火の粉を撮るために、金箔を扇風機で吹き上げた。
71年の大映倒産後は宮川一夫、森田富士郎、中岡源権ら旧大映スタッフを集めて制作会社、映像京都を設立。テレビドラマ「木枯(こがら)し紋次郎」「鬼平犯科帳」などを制作し、太秦の灯を守った。映画も五社英雄「鬼龍院花子の生涯」(82年)、勅使河原宏「利休」(89年)、篠田正浩「梟(ふくろう)の城」(99年)、大島渚「御法度(ごはっと)」(99年)など大作や野心作を手がけ、京都のスタッフの力を見せつけた。時代劇では建物の実物の測量を怠らず、リアルなセットを作り上げた。
90年代はKYOTO映画塾の塾長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。2010年の「最後の忠臣蔵」では「『近松物語』を再現するつもりでやってくれ」と現場を鼓舞。同年に体調を崩し、映像京都を解散したが、その活動は38年に達し、大映の歴史を優に上回った。
(古賀重樹)