「教えすぎない教え」 高校野球監督・岡田龍生(下)
大阪・桜宮高コーチ時代に現阪神監督の矢野燿大、青森・八戸学院光星監督の仲井宗基らを教えた岡田龍生は1987年、同じ大阪の履正社の監督に就いた。
83年に大阪福島商から校名変更した無名校は弱く、「どこに行っても相手にしてもらえなかった」(岡田)。そこから97年夏に甲子園大会初出場。監督就任から10年で激戦区・大阪を勝ち抜くまでになった源は苛烈な練習だった。若き熱血漢にとっては甲子園に出た兵庫・東洋大姫路の選手時代に経験したスパルタ練習が、教え子を甲子園に連れていく最善の手段だった。
「強くなるための近道」と信じて疑わなかったスパルタ方式は長くは続かなかった。2001年、学校などに届いた匿名の投書で岡田が選手に手を出していた事実が明らかになり、8月から半年間の指導禁止処分を受けた。
部員への申し訳なさを感じるさなかに思い出したのが日体大時代の米国キャンプ。現地の大学生は「なぜ私を使わないのか」などと監督に臆せず聞いていた。監督にもの申すなどもってのほかという環境で育った岡田には衝撃だったが、この対等の精神に今こそ学ぶべきではと思い至った。
■野球の調子と生活態度は「絶対に比例」
復帰後、それまでの「右向け言うたら右」の姿勢を、選手との対話を重んじる方向に改めた。選手と親それぞれとの2者面談も始めた。2度目に出た06年春以降、14年間で11度の甲子園出場を果たした背景に、岡田が自主性の尊重へかじを切ったことがあった。
野球の調子と「絶対に比例する」と生活態度や勉強の成績にも目を配るのは教師(保健体育)ならでは。「よう遅刻していますよ」などと学校での様子を率直に親に話すのも、ともに子どもの良きコーチ役になれればと願うからだ。
甲子園に出る高校によくある「素振り1日500本」などのノルマはない。強制の効果に懐疑的な岡田が語る。「僕が高校生のときは百パーセントやらされている野球だった。駒のように動かされている感じ。それだと選手は何も考えない。将棋の駒には意志がないけれど、選手だから桂馬にも意志があるわけですよ」
石川・星稜を破った今夏の甲子園大会決勝。奥川恭伸の攻略へ日ごろ選手に助言してきた岡田だが「最後の答えは出さなかった」。飛車や歩とタイプが異なる選手たちが自ら考え、答えを出してこそ意味がある。盤上の駒の全てが意志を持って躍動した一戦は、「教えすぎない教え」をモットーにしてきた岡田の脳裏に"名局"として長く残ることだろう。=敬称略
(合六謙二)