昭和天皇、戦争「反省」の意向 宮内庁初代長官が会話記録
宮内庁の田島道治・初代長官(宮内府長官時代を含め1948~53年在任)が昭和天皇との詳細な会話記録を残していたことが明らかになった。天皇は52年の独立回復式典の「お言葉」で戦争への悔恨と反省の表明を希望していたが、当時の吉田茂首相の反対で削除された。従来の研究で明らかになっていた事実だが、その経緯がより詳しく記載されている。
記録は49年2月から53年12月の間、田島元長官が昭和天皇とのやりとりを手書きで記録した計18冊の手帳とノート。「拝謁記」と記されており、田島元長官の遺族から資料を入手したNHKの取材班が19日に一部を公開した。記載されている拝謁回数は600回以上に上るという。
拝謁記にはサンフランシスコ平和条約発効後の52年5月3日の式典で昭和天皇が述べたお言葉の作成過程が記録されていた。昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)などと語り、「反省」という文言を盛り込みたいとの意向を繰り返し示していた。
だがその後の宮内庁の検討で「反省」の文字が草稿から削除された上、吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」と反対。昭和天皇が希望した戦争への深い悔恨の念を表現した一節がすべて削除された。
こうした経緯については、田島元長官の日記などを発掘、研究したフランス文学者の加藤恭子氏の「昭和天皇と田島道治と吉田茂」などの著書ですでに明らかにされている。ただ、お言葉作成過程の詳細なやりとりが明らかになったのは初めて。
このほか、冷戦が激しさを増す中、危機感を募らせた昭和天皇が「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」(52年2月11日)などと再軍備と憲法改正の必要性に言及したことも記されている。
天皇はこの考えを吉田首相に伝えようとしたが、天皇を象徴と規定し、政治関与を禁じた新憲法の観点から、田島元長官が「それは禁句であります」といさめたという。
古川隆久・日本大教授(日本近現代史)の話 象徴天皇のあり方を模索する時期の昭和天皇の肉声がまとまっており、超一級の資料だ。戦前・戦中を悔やむ言葉が多く、戦後になっても悔恨や反省が頭の中を最も大きく占めていたと分かる。田島元長官との詳細なやり取りが明らかになったのは新たな発見で、昭和天皇研究で貴重な記録となるだろう。
先行研究が存在 「新事実」違和感
原武史・放送大学教授(日本政治思想史)の話 田島元長官の拝謁記が発掘され、昭和天皇との詳細なやりとりが明らかになった意義は認める。しかし、田島元長官の残した文書については加藤恭子氏の先行研究があり、「新事実」を強調するNHKの報道には違和感がある。先行研究にまったく触れないのは誤解を与えるのではないだろうか。