柳弘之氏「試合に勝つには…経営と重なる80分間」
ラグビーと私(3)ヤマハ発動機会長
ラグビーのトップリーグの強豪、ヤマハ発動機ジュビロ。苦難の時代にチーム再生をけん引したのは当時、社長に就任したばかりの柳弘之会長だった。
――ラグビーとのつながりは。
「ラ・サール高校(鹿児島市)ではバスケットボール部だった。進学校だがスポーツは割と一生懸命やり、ラグビー部、サッカー部とは互いに横目で見ながら青春時代を過ごした。ラグビー部は九州大会の県予選で3位に入るなど結果を残した。当時のラグビー部の部誌には、対外試合の思い出について『もやしに負けるな』と叫んでいた某校監督の声、と書かれている。ラグビーは近い存在と感じていた」
――ラグビーの魅力は。
「会社人生の前半はほとんど海外で過ごし、2007年に今でいう生産本部長になって以降、当社のラグビー部の試合を観戦しにあちこちに出掛けるようになった。職場のメンバーが出場していたのもあったが、会社に置き換えて試合を見ると非常に面白い、と当時から思っていた」
「選手、戦略、マネジメントの3本立てで、どれかが欠けると絶対に勝てない。この3つがバランスの良い状態になると必ず勝てる。試合の80分間は自分の仕事、企業経営とオーバーラップする有意義な時間だ」
――09年の大幅赤字でラグビー部はリストラ候補になった。
「ちょうど社長に就任したタイミングで、リストラは前任者が決めていた。ただやり方は決まっておらず、私は部の存続を決意した。10年の初め、寮に選手らを全員集め『必ずチームを再生させる。1年だけ我慢してほしい』と訴えた」
「当時はプロ契約と正社員の選手がいて、全員をいったん、正社員にした。チームの4分の1は去ったが、精神的支柱の大田尾竜彦君や五郎丸歩君ら主力が残ってくれた。職場とのつながりは確実に太くなった」
――清宮克幸氏を招いてチーム再生を託した。
「トップリーグの入れ替え戦を戦い、どん底まで落ちた。今の選手たちで勝ってほしいと清宮さんにお願いし、彼は『やります』と即答した。若い選手を積極的に試合で使い、メンバーは役割を果たし、チームも化けた。例えば、かつて主将を務めた三村勇飛丸君は明大時代、それほど目立った選手ではなかった。自分の役割を全うし、強みを磨いてステップアップした」
――15年には日本選手権で初優勝した。
「大幅な赤字を受け、経営陣やOBには存続を巡りいろんな意見があった。実は当時、企業スポーツの必要性を考えたが、経営者が好きなことに尽きる、というのが結論だった。役員が私の世代に入れ替わったのも追い風だった。選手の苦難をそばで見てきたから、喜びは格別だった」
――引退後のセカンドキャリアにも気を配る。
「1987年にラグビー部の強化が始まり、以降、158人の選手が入社し85人が今も会社に在籍する。海外駐在が多く、現在進行形が19人で、帰国したのが18人。85人中、37人が海外駐在の経験者だ。ラグビー経験者は自分の役割をきちんと果たす、という明確な基本がある。派手ではないが、任せればやり遂げてくれるタイプが多い」
「例えば、インド南部で奮闘中の曽我部佳憲君はアイデアを次々と出し、現地で飛躍的に成長している。早大時代は天才スタンドオフと騒がれ、サントリーを経て当社で引退した。彼の営業チームは全員、インド人スタッフの中、現場で客との接点もきっちりこなす。現地でのタグラグビーの指導も彼の発案だ。何事にも前向きに挑戦し、どんどん吸収している。第2、第3の曽我部君が生まれてほしいと思う」
――ワールドカップ(W杯)への期待は。
「前回大会の南アフリカ戦の勝利は、たった80分間で世の中の評価を一変させた。期待を超えると感動につながる。もう一度、期待を上回る成績を残し、海外のファンに日本という国を再認識してもらいたい。こんなチームがつくれる日本、その中にヤマハの選手がいると胸を張りたい」
「当社グループは『レヴズ ユア ハート』を企業理念に掲げる。期待を超える価値と感動体験を提供するとの強い思いだ。7万人の従業員のうち6万人は海外の人で、理念を言葉にし、共通認識にすることが大事。ラグビーではタックルの低さやプレーの速さ、激しさ、正確さを『ジャパンスタイル』と呼ぶ。レヴズ ユア ハートもそんな理念でありたい」
(聞き手は 阿部将樹)