タイ代表・西野監督への期待 直接来た依頼に意義
サッカーの西野朗・前日本代表監督がこのほど、タイに渡って代表チームの指揮を執ることになった。アジア各国で日本のコーチや審判が指導や養成、強化の制度設計に携わることは今や珍しいことではない。それでも今回の西野さんの挑戦には特別に意義があると感じている。
今回のチャレンジは、タイ・サッカー協会からのオファーが西野さんに直接来たところに値打ちがあると思う。日本のサッカー関係者がアジアで仕事をする例はフル代表の監督、アンダーエージの監督、技術委員会のメンバー、審判のインストラクターなど多岐にわたるけれど、大半は相手国の協会から派遣要請が来て、日本サッカー協会がアジア貢献活動としてそれに応じる形だ。誰を送るかの人選は日本協会が主導するケースが多い。
西野さんの場合は違う。タイ協会からダイレクトに西野さんに依頼があり、西野さんも実際にタイに足を運び、向こうの会長とも懇談し、条件等もいろいろ詰めて、最終的に西野さんが決断して決まった話である。掛け値無しというか、商業ベースというか、プロの監督として、きちんと交渉した上で契約に至ったわけである。
タイ協会が、昨夏のワールドカップ(W杯)ロシア大会の日本の戦いと西野さんの仕事ぶりを見て、オファーを出したことは想像に難くない。ベトナムでフル代表とU-22(22歳以下)代表を率いた三浦俊也氏(現ホーチミン・シティーFC監督)のような先駆けがあって、日本のコーチたちが日本の指導の良さを広めてくれたのも大きいのだろう。日本サッカーの成果に対するリスペクトがあって、日本のようになりたいと思うから今回のオファーがあり、それだけのオファーが出せるくらい、タイとタイサッカーの経済力もついてきているのだろう。
■日本サッカー、強化30年の生き証人
西野さんはタイで23歳以下の監督も務める。兼任監督を念頭に置けば、日本代表でユース(20歳以下)、五輪(23歳以下)、フル代表、そして技術委員長も経験してきた西野さんのキャリアは、タイ協会から見ても相当に魅力的に映ったことだろう。ある意味、この30年近くの間に急成長を遂げた日本サッカーの強化面での生き証人のような人だから。
それに加えて、西野さんにはG大阪などで積み上げたJリーグ最多勝監督(270勝)の実績もある。これまで外国人監督に代表チームを任せる場合、欧州から呼ぶことが専らだったタイが、ここにきて路線変更したのは、西野さんがこれまでに積み上げてきた知見を自分たちのレベルアップに大いに生かしたいと考えてのことだろう。
聞くところによると、西野さんは日本人スタッフを大勢引き連れていくのではなく、現地のスタッフと仕事をする気でいるらしい。これも西野さんらしい。というのも、西野さんはG大阪でもフィジカルコーチやGKコーチに外国人コーチを置くことが多かったからだ。親分・子分みたいな情緒的な関係より、国籍に関係なく、機能主義的にスタッフを編成するのが西野流。そういう姿勢はタイの人にも分かりやすいのではないだろうか。
今回のタイでの仕事を、私が心から喜んでいるのは、西野さんの「現場好き」を知っているからでもある。世間的にはダンディーな西野さんと思われているが、実はスーツが嫌い、机に座っているのも嫌い、何より練習場で芝生の匂いを嗅いでいるのが好き、という人なのだ。ネクタイも苦手で、記者会見が終わるとすぐに取ってしまう。スーツにネクタイに革靴より、ジャージーにサッカーシューズにキャップをかぶっている方が性に合う人なのだ。
ロシア大会後に代表監督の職を辞した後、英気を養っていたが、監督の仕事に戻りたくてうずうずしていた。そんな西野さんにもたらされた新天地での仕事。本人もやる気満々でいることだろう。
もちろん、異国での仕事は簡単ではない。一番の問題はおそらくコミュニケーションになる。フロント、スタッフ、選手とは通訳を介しての仕事になるから、自分の意図することが十分に伝わらないことも多々あるだろう。伝えたことと、伝わったこととは違う。この差をどう埋めていくか。日本代表を率いた歴代の外国人監督が味わった苦労を今度は西野さんが経験することになる。
■聞く耳の大きさ、タイでも有効に
監督には、いろいろなスタイルの人がいるが、西野さんの特長は聞く耳が大きいことである。この資質はタイでもかなり有効に作用すると思う。
私と西野さんは1996年アトランタ五輪をコーチと監督として戦った仲だが、とにかく人の意見によく耳を傾けてくれる。あらゆる部門の意見を吸い上げる。かといって、その情報の渦におぼれることはない。最後は、どうやったらチームが勝てるかを自分で考え抜いて結論を出してくる。試合中もそうだ。テクニカルエリアからの指示も自分で決めて出していく。
監督の仕事は、選手の質と、その国の文化的な背景をどう引き出すかが成否の分かれ道になる。西野さんはその際、選手にどうしたいのかをしっかり聞く。選手のやりたいことをそのままやるわけではない。選手の望みと自分の考えをどう混ぜ合わせたらうまくいくかを探るのが上手なのだ。
いろんなシステム、メンバーを粘り強く試しながら、微妙に変化させながら、相手の研究もよくやって勝ちを目指していく。決して最初から「こうやるんだ」と頭ごなしに選手にはいわない。少しずつ修正して選手と折り合いをつけながら、ギャップを埋めつつ、いい方向にチームを持っていく。W杯ロシア大会の日本の戦いには、そういう西野さんの資質がよく表れていたと思う。
タイでもタイの選手の長所、良さを引き出しながら、失点も減らす努力をして、バランスの取れたチームづくりをしていくだろう。タイの弱みと強みをよく知っているのはアドバンテージになる。日本で技術委員長をやっていた時の情報は今も頭の中にある。仮にW杯アジア最終予選で日本と試合することになったら刺激的だ。いかにサッカーがグローバルなスポーツかの証しであり、注目の一戦になるだろう。
札幌のチャナティップ、横浜MのティーラトンのようにJリーグで素晴らしい活躍をしているタイ代表もいる。彼らには西野さんもチーム内のパイプ役として期待しているだろう。タイサッカーのレベルは確実に上がっていて、そのタイ代表がどう変わるかで、指導者を含めた日本サッカーの価値もさらに上がることになる。
さて、9月からはW杯カタール大会のアジア予選がもう始まる。日本はF組でキルギス、タジキスタン、ミャンマー、モンゴルと同組になった。1位なら無条件で、2位は8チーム中成績上位の4チームが最終予選に進出する。タイはG組でアラブ首長国連邦(UAE)、ベトナム、マレーシア、インドネシアと一緒というASEAN(東南アジア諸国連合)色の濃いグルーピングになった。
■世界16強とふんぞり返っていては…
日本の組み合わせを見て、「超楽」「最終予選進出は決まったも同然」といった観測が広がっているが、私はそうは思わない。W杯予選の相手は日本と対戦するとなると一か八かの勝負を仕掛けてくる。全員が自陣のペナルティーエリア内に立て籠もるとか、力の差があればあるほど思い切った手を打ってくる。
例えば、来年3月のアウェーのモンゴル戦は気象条件が厳しい。場合によってはマイナス20度の極寒の中の試合になる可能性もある。おそらく日本の選手にとっては初めて経験するピッチコンディションでの試合になるだろう。ことほどさように、普通に日本のホームでサッカーをすれば楽な試合になっても、アウェーでは何をしてくるか、何が起きるかわからない。それがW杯予選なのである。
相手と戦う前に、環境との戦いに勝たなければならないのがW杯予選の難しさであり厳しさである。今回はW杯予選を初めて経験する選手も多い。心してかからないと、「世界のベスト16」なんてふんぞり返って試合をすると大変なことになるだろう。
(サッカー解説者)