20年東京大会 日本記録持つランナーが抱く2つの願い
陸上短距離 大森盛一(最終回)
2020年夏、東京に2度目の五輪・パラリンピックがやってくる。大森盛一(47)は全盲の走り幅跳び選手、高田千明のコーチとして東京への出場を目指している。一方、23年間破られていない陸上4×400メートル(1600メートル、通称マイル)リレーの日本記録保持者として複雑な感情も抱いている。最終回は走り続ける大森が東京大会にかける願いを届ける。(前回は「五輪入賞ランナー 指導者でパラリンピック『出場』」)
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東京パラリンピックでのメダル獲得に挑む、全盲のジャンパー高田千明(34=ほけんの窓口)は7月、2年ぶりに自己新記録をマークし(4メートル60)1日で3度も日本記録を更新してみせた。
08年から指導する大森盛一は、北京、ロンドンに出場できなかった高田を100メートルから走り幅跳びに転向させ、さらに高みを目指してリオデジャネイロ(全盲T11のクラスで8位)後、女子走り幅跳びの池田久美子(現姓井村、鈴鹿市でイムラアカデミーを主宰)に特別コーチを依頼した。大森、池田と陸上の日本記録保持者2人が支え、開花させた才能の在り方は、個人的なストーリーのみならず日本スポーツ界全体にも重要な意味を示している。
スポーツにおける平等を体現
20年東京が決定してから、これまで文部科学省の管轄下にあったオリンピック派遣事業と、リハビリの一環として厚生労働省が管轄してきたパラリンピックの垣根は取り払われ「オリンピック・パラリンピック」との表記をはじめ、両競技が並列されるよう進歩している。2人のトップ選手の指導で、高田が結果につなげたスタイルは、省庁や予算の枠組みだけではなく、スポーツにおける平等をさらに進化させていくきっかけになるかもしれない。
例えばアメリカでは、元五輪のスター選手がパラ陸上選手団の監督を務めるなど、強化拠点、科学データの共有などが盛んに行われる。自らの活動がささやかでも、日本のスポーツに何か貢献できるのではないかと大森も考える。
「高田の指導を始めた頃、自分にもパラスポーツの可能性やどうすれば引き出せるのかといった知識はありませんでした。ただ、続けるうちに彼らの潜在能力、魅力に引き込まれていった。自分が現役だった頃とはまた違うアプローチで競技に臨めるのは本当に幸せですし、オリンピックを経験した選手たちにも是非その財産を使ってほしいと思います」
1本1本の個性あふれる「木」が集まる「森」であってほしい。そう願い名付けた「アスリートフォレストTC」は、言葉通り豊かな「アスリートの森」を育てているようだ。
高田には、陸上選手として聴覚障害者の世界大会「デフリンピック」の出場経験を持つ夫・裕士と、長男・諭樹がいる。アスリートであり、妻であり、母である高田を指導するうえでもっとも重要なのは「彼ら2人の元へ、高田を無事に帰すこと」と、大森は即答する。
「重要なのは記録やパフォーマンスだけではなく、安全に競技に取り組める環境です。2人の元へ彼女をちゃんと返す。競技場を出るときではなく、それが自分にとってトレーニングの終了を意味しています」
最大の持ち味でもある助走のスピードと、池田直伝のジャンプテクニックで、11月7日に始まるパラ世界陸上(ドバイ)でのメダル獲得を狙う。
大森には、20年、高田と東京パラリンピックで新国立競技場のトラックを走る目標と、もうひとつ、ひそかに抱く「2つのオリンピック」への願いがある。1996年アトランタ五輪で4×400メートル(通称マイル)リレーの日本記録(3分0秒76)を樹立したアンカーとしての願いだ。
「引退し、自分の名前が残っている記録をどこか誇らしく思う時期もありました。それが、時間がたって、まだ残っているのか、という気持ち50%、残っていればうれしいとの50%ずつの感情に変わり、今では、何とか更新してくれよ、と、そう願うようになりましたね。オイオイ、23年だぞ、何とか超えてくれよ、と」
悔しそうに言う。
かつては、4×100メートルリレー(通称4継=よんけい)より、世界に近いと期待されたのはマイルリレーだった。ところが、当時、戦後最高となる5位でゴールに飛び込んで以降、時計は止まったままだ。
アトランタの次、2000年シドニー五輪は準決勝で敗退した。雪辱を期して臨んだ04年アテネ五輪は史上最高位となる4位で日本記録に迫る3分0秒99をマークし、しかも3位ナイジェリアとの差はわずか0秒09と、すぐにメダルに手が届くと思われた。
しかしこの4位が「マイルと4継のその後の明暗を分けた地点となったのかもしれません」と、日本記録更新を大森と同じに願う苅部俊二(50=法大スポーツ健康学部教授)は、同大学の研究室でそう指摘した。16年リオデジャネイロ五輪400メートルリレーでは短距離を率いて、銀メダル獲得を指揮。現在、日本陸上競技連盟では現場の最前線を離れ、リレー戦略担当を務める。
「シドニー五輪ではバトンを落としていましたから、4年かけてアテネで4位に入り、マイルリレー全体がどこかホッとし満足したのでしょう。反対にあの時4継は、4位に全く納得しておらず、メダルが取れずみんなむしろ悔しがっていた。ゴールの瞬間の気持ちの差は、年数が経過する分、広がっているかもしれない。現場にいた僕ら指導者が、何やっていたんだ、と叱られても仕方ないのですが……」
自責の念も込めてそう話す。
メダルに手をかけたと思われた日本のマイルリレーは、08年北京五輪から16年リオまで五輪3大会連続で予選落ち。17年のロンドン世界陸上では、アトランタでの日本記録から6秒も遅い3分7秒29で予選最下位(8位)に。同じレースでバトンを落としたボツワナにも敗れる歴史的惨敗だった。
「400メートルランナーの誇り」
なぜマイルリレーの記録が塗り替えられないのか。400メートルの走力そのものが低迷してきた事実と同時に、アトランタ五輪でアンカーが見せた走りにこんな考えも浮かぶ、と1走だった苅部は明かす。2走伊東浩司、3走小坂田淳とつなぎ、大森にバトンが渡った際は4位だった。
「頼む、このまま4位で行ってくれと願ったんですが、最後はセネガルに抜かれて5位となった。でも自分がアンカーでもあぁして走ったでしょうね。心のリミッターを思い切り外して無酸素の恐ろしい地獄に突っ込んでいく。400メートルとはそういう種目です。それができるかどうか、アンカー大森のあの攻めの走りは本当にすごかった。まさに400メートルランナーの誇りです」
1走とアンカーに23年たった今、密な接点はない。しかし法大陸上部監督として五輪選手を育てながら、パラ陸上の選手と世界の大舞台に立つ大森に「励まされ、刺激を受けている」と、苅部は笑顔を見せた。
「心のリミッター」と表現した言葉を聞き、大森も笑った。アトランタで狙ったのは銅メダルで、バトンをもらった1歩目から全力で踏み出した感触を今も忘れないからだ。五輪で地獄に触れ「頭が本当に真っ白になった」と言えるベストを尽くしたからこそ、引退後のレースがどれほど苦しくても、また1周、もう1周と人生のトラックに挑み続けたに違いない。
8月25日、高田と目指す東京パラリンピック開幕1年前となる。全盲の高田を指導し、伴走者となり、コーラーを務めたこの11年、何を学んだのだろう。
「障害があろうがなかろうが、アスリートはたとえ何があってもアスリートに変わりない。そういうシンプルな考え方を、高田と競技に取り組んで教えられたように思います」
アスリートは何があってもアスリートである――引退から20年をかけて出した、自分への答えでもある。
=敬称略、この項終わり
(スポーツライター 増島みどり)
1972年、富山県高岡市生まれ。中学校で本格的に陸上競技を始め、400メートルを中心に活躍する。県立伏木高校から日本大学に進み、92年バルセロナ五輪に出場。96年アトランタ五輪では400メートルと1600メートル(マイル)リレーに出場した。リレー決勝はアンカーを走り、64年ぶりの5位入賞を果たす。その際に出した3分0秒76のタイムは日本記録で、23年間破られていない。日本選手権では94、96年に400メートルで優勝。2000年に引退。自己ベストは46秒00。引退後、様々な仕事を経て、08年、陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ(A・F・T・C)」を設立、指導者に。同クラブには100メートルの日本記録保持者、サニブラウン・ハキーム選手も小学生時代に所属した。現在は産業用機器製造「日本アルス」に勤務しながら子どもらを指導する。視覚障害のクラスで走り幅跳びと100メートルを専門とする高田千明選手のコーチも務めており、東京パラリンピックを目指している。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。