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元五輪ランナー、サニブラウンの「初めての指導者」に

陸上短距離 大森盛一(2)

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1996年アトランタ五輪の陸上1600メートル(通称マイル)リレーで今も破られない日本記録をアンカーとして樹立し、5位入賞を果たした大森盛一(47)は引退後、陸上から離れた。ディズニーのキャストや宅配業など様々な職業に就いたが、400メートルトラックを1周するかのように陸上界に戻ってくる。今回は指導者になるまでの軌跡と、突出した才能に出会う奇跡をたどる。前回は(「23年残るリレー日本記録 アンカーは再び夢舞台めざす」

◇   ◇   ◇

大森盛一は、無酸素運動として過酷さを極める陸上400メートル走には「もう戻らない」と決心してトラックを離れた。そうして始まった人生というレースに酸素はあったが、スタートから苦しい展開となっていた。

陸上での評価、人脈とはあえて無関係な仕事にチャレンジしたいと考え、最初に選んだのはディズニーのキャストだ。記録や結果ではなく、言葉やコミュニケーションで人を感動させる充実感を初めて味わう。夢の世界を出て、次は一日中運転し、黙々と荷物の集配を繰り返す宅配業を選ぶ。5年が過ぎて宅配業を退社し、知人に紹介された生命保険の営業の仕事に就く。

寡黙なランナー、営業マンになる

どれも違う職種に見えて、不思議な共通点がある。かつて、雄弁に競技や自身を語らなかった寡黙なランナーが「陸上とは無関係の世界」を求めて就く職業はなぜか、接客を基本とする点で同じだった。人とコミュニケーションを取り、何かを伝える。それが苦手だから、無酸素の世界で生きようとした面もあっただろう。そうだとすれば本当は陸上を離れたのではなく、陸上界に指導者で戻る日のために、絶対に必要な基礎とスタイルを築くための時間だったのかもしれない。

生命保険の営業も、それを専門にしてきたプロたちにはなかなか追い付けず業績も上がらない。この時期がもっとも厳しかったと振り返る。

「宅配業の時にも、ウチのほうが安く荷物を運びます、と他の会社と競争するための営業は経験していましたが、保険はまた違いましたね。引退して6年がたち、この頃が苦しい時期でした。家族もいましたのでとにかく仕事を探し、家族の知人が産業用の機器を製造する会社で営業を担当しては?と機会を与えてくれたんです」

年間数十億円を売り上げる安定した中小企業で、営業の仕事そのものは順調だった。しかし2008年秋、今度は「リーマン・ショック」に見舞われ、会社は人員削減を余儀なくされる。「トラックを離れた」と思っていた五輪選手が、実は依然400メートルトラックでもがき、走り続けていたのだと知ったのは、どん底に見えたこの時期だった。

3つめの職業となった生命保険会社に勤めた07年ごろ、その経歴を知った顧客に「ちょっと見てもらえないか」と、東京・北区にあるトラッククラブ「AC・KITA」を教えられた。1990年創立の伝統あるクラブには、当時すでに身体障害者も健常者も一緒に陸上を楽しむ、先進的な気風が浸透していた。ここで、女子パラ陸上で100メートルを走っていた高田千明(34=ほけんの窓口)と初めて出会う。

翌08年、リーマン・ショックのなか、新たな夢を抱いてトラックに戻る。色々な木が集まり、それぞれに個性を伸ばしていく「森」(フォレスト)に思いを込めて、「アスリートフォレスト トラッククラブ(A・F・T・C)」を、当時住んでいた浦和を拠点に設立。少したつと、陸上の知人を通じて、小学校4年の男の子がクラブに加わった。今も忘れられないのは、少年、サニブラウン・ハキーム(20=米フロリダ大)の才能や走り同様、休まず練習に通ってきた姿だと、いとおしそうに振り返る。

「彼は都内から浦和近辺で行っていた練習に来ていました。10歳の男の子には決して近い距離じゃないと思いますが、彼は電車が大好きで、都内から浦和まで乗り継いでやってくるのが楽しかったんでしょうね。いつも子どもたちを駅に車で迎えに行きましたが、電車に乗って来るのが本当にうれしそうでした。帰るのも楽しそうでしたから、きっと練習はその間の休憩みたいな感じだったのかもしれませんね」

最初に走りを見た際、その接地の仕方の柔らかさに驚かされたという。フォームは粗削りだったが、接地、足首の使い方には持って生まれた洗練された動きが備わっており、「ひょっとしたら、ひょっとするトップランナーに成長するかもしれない」とも考えた。しかしサニブラウンにとっての「初めての指導者」は、「自分が育ててやるんだ」といった名誉欲を持たなかった。少年にとって幸運だったはずだ。

大森は記録の速い、遅いではなく、一見、練習熱心ではないように見えた少年に、何より長いキャリアで走る楽しさを覚えてもらおうと考え、仲間とのリレーで、周囲と一斉に走る2走を任せた。そうすると、「チームのために頑張ろう」との気持ちが強く表に出る。明るく、おおらかな少年の姿は、100メートルの日本記録(9秒97)を樹立した今につながる原点なのかもしれない。

「待ちの指導」スタイルを確立

「小学生、中学生の男の子に何を細かく言っても響かないと思っています。男の子はまだ体ができていませんから、こちらが自分の経験値で指導したところで余計に難しくなってしまうだけです。大切なのは適切な時期に、適切なアドバイスができているかだと考えます。基本の動作は重要ですからきちんと伝えますが、後はそれを毎日、自発的に繰り返せるかどうかです」

楽しければ毎日続く。毎日続ければ自然と疑問が湧く。そこで出てくる質問にこそ、最大限の答えを提示する。こうしたメリハリをつけ、相手から来るタイミングをはかる「待ちの指導」(大森)は、業種の異なる数多くの仕事を続けた結果生まれたユニークなスタイルのように見える。

ディズニーのキャストで「ジャングルクルーズ」「ヴェネツィアン・ゴンドラ」の船長をこなし、性別、年代を問わず多くの客を喜ばせるためのコミュニケーションを取らなくてはならない。

黙々と荷物を運ぶように見える宅配業でも、生命保険、製造機の販売でもやはり目の前の人との対話で始まる。

サニブラウンがちょうど自分から質問をしてくるはずの時期、国内のルール上、試合に出場するために中学校の陸上部への選手登録が必要になりクラブだけの指導を続けられなくなった。無念さを抱きながら、シドニー五輪代表で同じ400メートル走者、日大の後輩でもある山村貴彦(39=城西大付属城西中・城西高)へ、さらなる成長のためのバトンを託した。

リーマン・ショック時に勤務していた会社は、不況による人員削減で退社する結果となったが、そこで築いた人脈に手を差し伸べてもらった。取引先でもあった静岡に本社を置く「日本アルス」の社長が、社員採用を受け入れ、5つめの仕事でようやく、営業マンと、陸上トラッククラブの主宰者との兼業ができるようになった。トラックを離れた8年間は、実際には走力とは異なる指導力を身に付けるためにもがいた時間に違いない。

「走り切った、だから陸上を離れた、と思っていたはずが、人生の400メートルに例えればまだ気持ち良く走れるバックストレート付近だったんですね。結局、400メートルのランナーはトラックを1周して何かを手にするんでしょうか。縁あってこうして戻ってこられたのだから、もう骨を埋めなくては、と覚悟も決めています」

照れたように笑う。

想像もしなかったキャリアも、この頃、スタートを切っていた。

「AC・KITA」に所属していた高田千明は、年齢とともに病気が進行する「黄斑変性症」で、専門学校を卒業した頃には視力を失ってしまった。練習環境や指導のノウハウをどうやって受ければいいか悩んでいた時期、全盲のクラス「T11」で08年の北京パラリンピック100メートル出場を狙うが落選。大森が新しいトラッククラブを立ち上げたと知ると、「どうしても指導を受けたい」と飛び込んできた。高田の強さに「障害者なのに、競技に対しどこにこれほどの向上心があるんだろう」と驚かされた一方、五輪に2度出場した日本記録保持者には、高田をアスリートと呼ぶには、技術もフィジカル面もまだ足りないと映る。

高田は、陸上の理論にかなった歩き方がどういうフォームなのか見た経験がない。だから足が外に開いてしまう。欠点を修正するため、大森はまず歩き方から徹底的に変えようと計画した。全盲の高田の左手と、自身の右手を「ロープ」を使って握り合い、前へ進む。

長さ20センチほどのロープが、高田のパラリンピック出場をかなえるだけではなく、大森をも、思ってもいなかった20年ぶりとなる夢の舞台へと導いていく。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

大森盛一(おおもり・しげかず)
 1972年、富山県高岡市生まれ。中学校で本格的に陸上競技を始め、400メートルを中心に活躍する。県立伏木高校から日本大学に進み、92年バルセロナ五輪に出場。96年アトランタ五輪では400メートルと1600メートル(マイル)リレーに出場した。リレー決勝はアンカーを走り、64年ぶりの5位入賞を果たす。その際に出した3分0秒76のタイムは日本記録で、23年間破られていない。日本選手権では94、96年に400メートルで優勝。2000年に引退。自己ベストは46秒00。引退後、様々な仕事を経て、08年、陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ(A・F・T・C)」を設立、指導者に。同クラブには100メートルの日本記録保持者、サニブラウン・ハキーム選手も小学生時代に所属した。現在は産業用機器製造「日本アルス」に勤務しながら子どもらを指導する。視覚障害のクラスで走り幅跳びと100メートルを専門とする高田千明選手のコーチも務めており、東京パラリンピックを目指している。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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