令和のスポーツ界 自ら動き時代を変える力に
FIFAコンサルタント 杉原海太
5月から元号が令和に変わることをとらえて、さまざまな立場の人が新しい時代のあるべき姿について語っている。しかし、寡聞にして、そうした情報発信にスポーツ界発のものは少ないように思える。令和の時代に求めるスポーツの在り方について考えてみた。
某日、ラグビー狂の知人と話をしていたら、今年日本で行われるラグビーのワールドカップ(W杯)は令和元年に行われる初のビッグイベントであることを、しきりに強調していた。「当のラグビー関係者はそのことをあまり意識していないようだ」とも。知人はそのことが歯がゆくて仕方ないようだった。
「せっかく、令和元年にやるのだから、ハコモノじゃないレガシー(遺産)があるべきで、そういうイメージをもっと活用できないものか……」
■古い慣行・体質と格闘した平成時代
元号とスポーツは直接関係がないように思える。しかし、「昭和」から「平成」という時代の移り変わりの中で、いろいろな価値観の変動があり、後になって振り返ると、そのこととスポーツは非常に相関性が高いことに気づかされる。スポーツは時代を映す鏡だとしみじみ実感するのである。
例えば、平成をざっくりまとめると「編入」「再編」「グローバルスタンダード」といった言葉とひも付けられる。昭和的な古い慣行や体質から抜け出そうと格闘したのが平成という時代であったと。
いささか乱暴だが、プロを含む野球界は昭和的、Jリーグ誕生後のサッカー界は平成的といった見方もできるかもしれない。1993年のJリーグ発足を機に欧米のグローバルスタンダードを採り入れた日本サッカーは、W杯出場の常連になり、世界に追いつき追い越せという一大ムーブメントを巻き起こした。正確にはJリーグをプランニングしたのは昭和の終わりだったが、平成の間に時代を象徴するプロスポーツとしてすっかり定着した。
Jリーグの素晴らしさは、昭和の終わりに、地域密着と並行して国際親善や国際競争の重要性を先取りし企画した先進性にあった。だからこそ人々は熱狂したわけである。それを横目に見ながら、昭和から平成モデルへと球団の在りようを発展させたプロ野球の新興球団も現れた。そうやって相互に影響し合いながら、スポーツをビジネス、社会貢献、国際交流など、いろんな側面からきちんととらえられるようになったこと。これも平成の時代の大きな変化かもしれない。
平成の時代に選手個人の在りようも大きく変わった。大リーグに挑戦した野茂英雄さん、セリエAに挑戦した三浦知良、中田英寿さんをパイオニアに、あらゆる競技で海の外に出て活動し、頂点にチャレンジするのが当たり前になった。昭和の時代とはまったく異なるインパクトを、アスリートがスポーツという枠を超えて社会に与えるようになった。
そうやって考えてみると、これからも日本のスポーツは何らかの形で「令和」という時代を色濃く反映するのは間違いないだろう。そうであるならば、ただ時代を受け身で映すのではなく、スポーツ界が自ら能動的に「令和という時代をこういうふうにしたい」「社会をこういうふうに変えたい」とアピールしてもいいのではないだろうか。その点で現在のスポーツ界に物足りなさを覚えるのは私だけだろうか。
令和という時代の変わり目に対してスポーツ界の反応が鈍いのは、一つは2020年東京オリンピック・パラリンピックが翌年に控えているからかもしれない。日本のスポーツ界にとっては来年のオリパラこそ時代の一大転換期であり、そこから日本の"スポーツ村"もいろいろなことが変わっていくという意識があるのかもしれない。
「和を以(もっ)て貴しとなす」とされる日本社会で、自ら進んで新しいことを始める大変さもある。それが苦手な日本で、改革によく利用されるのが「外圧」だ。分裂していた日本バスケットボール界が一つにまとまったのも、国際バスケットボール連盟(FIBA)に制裁の脅しをかけられたのがきっかけだった。
ただ、いつまでも外圧頼りでは情けない。新しいことを始めるには機運を盛り上げることが大事で、そのマインドセットに新元号は、いいタイミングを提供してくれるように思う。
「令和元年」でも「2020」でもいいから、要はスポーツ界が自ら動いて時代を切り開く姿勢を見せることが大切なのだと思う。
平成の時代にそういう変化を先取りして積極的に動いたのがJリーグだった。川淵三郎さんをはじめとする当時のサッカー関係者たちは単に興行的成功だけを追いかけてプロ化に突き進んだのではなく、大きな社会変革をも視野に入れていた。こんな素晴らしい先行事例を参照しない手はないだろう。
日本の競技は「武道」として始まり、それが「体育」になって、今は「スポーツ」へと変わってきているとよくいわれる。部活における体罰など、いまだに昭和的なものの残滓(ざんし)があるともされる。ここから先、スポーツをどう進化(深化)させ発展させていくか。当事者であるスポーツ人に、その問いに対する答えがないようでは心もとない。
■スポーツを社会に開き使ってもらう
「令和の時代に響くメッセージをスポーツ界は自ら発信せよ」。そう願う私は、スポーツをもっと社会に対して開いて、使ってもらうべきだと考える。スポーツを狭い世界に閉じ込め、一部の関係者や指導者の持ち物のように扱わせるのは終わりにすべきだと考えている。
地域密着という言葉は欧州ではそもそもないらしい。スポーツはもともと地域の中にあるから。そういう意味では欧米にはスポーツを「使う」という発想もないのかもしれない。ずっと使ってきたから。一方、日本はまだまだ手つかずというか、スポーツについて未開発の部分が多く残っている。裏返せば、日本のスポーツには伸びしろがまだまだたっぷりあるということだろう。
個人的には、令和の時代にスポーツに求められるものは、国内総生産(GDP)のような数値で測れるものではなく、多幸感や健康寿命の延伸といった日常に根差したものへの貢献になると思っている。超高齢化社会や人口減社会に対応するためにスポーツはどうあるべきか。何ができるのか。スポーツを使って社会を良くするというのは階層としては昭和的、平成的なるもののさらに一層上にあり、相当ハードルは高いけれど、そういう取り組みが各地で既に行われているのも事実である。決して夢物語ではない。
スポーツを、時代を映す鏡から、時代を動かす力に変える。そのためにスポーツの潜在力をスポーツ界以外の人にも知ってもらう必要がある。賛同者、協力者を募る必要がある。昭和、平成と培ってきたものを、欧州や米国のコピー・アンド・ペーストではなく、きちんと自分たちで咀嚼(そしゃく)して日本に合った形で発展させていく。地味ではあるけれど、それが令和の時代にスポーツ界が取り組むべき挑戦になると思っている。