「MLBファースト」で野球の地位守れるか
スポーツライター 浜田昭八
エンゼルス・大谷翔平の戦列復帰戦を連日テレビ観戦して、日本人大リーガー第1号だった村上雅則の話を思い出した。日米の野球を取り巻く状況に違いはあるが、あのころと今とでは大リーグに対する野球ファン、メディアの受け止め方に大きな差がある。
大谷がチームに合流するため、米西海岸の本拠地ロサンゼルスから東部の遠征先デトロイトへ移動した模様は日本のスポーツニュースでも伝えられた。試合にも日常生活にも通訳が付き、なに不自由ない感じだ。投打二刀流の「オオタニさん」は、米国のファンの間でも大変な人気者になっている。
村上の大リーグでのデビュー戦も遠征地だった。サンフランシスコ・ジャイアンツ(SFG)傘下のマイナーから大リーグへ昇格したときには、ニューヨークへの航空券を渡され、ホテル名を教えられただけ。通訳なし、見送り、出迎えなしで、カリフォルニア州フレスノからサンフランシスコ経由で米大陸を横断する一人旅だった。乗り継ぎで迷い、タクシー乗車、ホテルのチェックインに苦労するなど、まだ世間知らずだった青年には厳しい試練だった。その模様は、日本へはほとんど伝わっていない。
■「マッシー」の愛称ついたパイオニア
村上は法政二高から南海(現ソフトバンク)入りした左腕投手。1964、65年に球団が派遣する野球留学の形で渡米した。大リーグ1年目の64年は9登板で1勝だったが、翌65年には先発1、救援44の計45登板で4勝1敗だった。74回1/3の投球イニング数を上回る三振奪取85は高く評価され、「マッシー」の愛称も知られるようになった。
本人は66年以降も大リーグでの続投を望んだ。自信もあったようだが、南海とSFGとの間の契約に行き違いがあり、希望はかなわなかった。日本球界に復帰後、南海、阪神、日本ハムで活躍。82年まで通算18シーズン投げて103勝82敗30セーブをマークした。引退後は日本ハム、ダイエーなどでコーチを務めた。
野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースへ移籍したのは1995年。その31年も前に大リーグでプレーしたパイオニアがいたことは、意外に忘れられている。「マッシー」と「トルネード野茂」との間の31年間に、大リーグは球団を増設し、日米の力の差は接近した。その後、ポスティング制度、フリーエージェント(FA)制の導入で日本のスターの渡米ラッシュは加速。佐々木主浩、イチロー、松井秀喜から松坂大輔、田中将大、前田健太、そして大谷、菊池雄星へと、とどまるところをしらない。
一時は「えっ、この選手も……」と首をかしげたくなるレベルの選手も米球界を目指した。村上時代には雲の上の存在と思われた大リーグが、それだけ身近になってきたのだ。だが、トップクラスの選手は別にして、相当数の選手が「マイナー契約」に終わって帰国している。
首尾よく大リーグ入りしても、そこで選手生活を全うできなかった人物も多い。阪神・福留孝介、ヤクルト・青木宣親のように、帰国してからの入団先で活躍できるなら救いはある。ソフトバンク・川崎宗則、阪神・西岡剛らは、米国で力を抜かれたかのように、帰国後のプレーに精彩を欠いた。ケガが災いしたが、念願の大リーグ入りの代償は大きかった。
復帰組が大リーグの技術、プロ意識を持ち込み、日本球界の後輩に与えた影響は大きい。その功績は認めるが、日本球界で日本選手ともっと戦い、日本野球のレベルアップに寄与する選択はできなかったか。かなわぬ夢だが、現時点で「打者オオタニさん」―ソフトバンク・千賀滉大、「前ケン」―巨人・坂本勇人、「田中マーくん」―西武・山川穂高の対決などを見ることができたら、どんなに素晴らしいかと思う。
その楽しみを「MLB(大リーグ)ファースト」の米球界が、日本のファンから奪ってしまった。わが球界も韓国、台湾球界のスターを獲得してきたから、えらそうなことは言えない。それは別として、2020年の東京五輪を最後に、野球は五輪種目から排除される雲行きだ。MLBは経営者、選手会ともに、五輪野球に背を向ける姿勢を早々と打ち出している。経営に苦しむ球団もある。アメリカンフットボール、バスケットボールなどとの競争も厳しいという。世界的に野球人気を盛り上げなければならないだろうに、一体どういう考えなのか。
マッシー村上によると、米国内での元大リーガーの地位は極めて高いそうだ。今でもいろいろな催しに呼ばれ、敬意を払われる。それなのに、独善的な運営で野球はその地位を守り通すことができるだろうか。(敬称略)