天皇、皇后両陛下の歩みと絆
22日に即位礼を迎えられた天皇陛下。皇室の慣例にとらわれない上皇ご夫妻の育児方針の下、勉学に励み、活動の幅を広げられてきた。元外交官の皇后さまを生涯の伴侶に得て、長女の愛子さまも誕生。家族に支えられながら「令和」の公務に臨まれている。
陛下、歴史を学んだ若い日
天皇陛下は1960年2月23日生まれ。幼名は浩宮(ひろのみや)。「自分たちの手元で育てたい」という上皇ご夫妻の下で成長された。ご夫妻は特別扱いを望まず、陛下は皇族として初めて幼稚園に通われた。
チェロをたしなむ上皇さまの影響を受け、4歳からバイオリンを習われた。現在は学習院大時代のオーケストラ部で切り替えたビオラを演奏されている。
学習院OB管弦楽団の定期演奏会に出演し、ビオラの腕前を披露されることもある。
学習院初、中、高等科と進学。小学生の時に、お住まいのある赤坂御用地(東京・港)内で鎌倉時代の古道を見つけ「道」に興味を持たれるようになった。陛下は道の魅力について未知の世界に旅立つことができることだと語られている。
上皇后さまと松尾芭蕉の「奥の細道」を読破したことで昔の旅の足跡への関心が深められたとも振り返られている。こうした経験を通じ、人やモノの流れの歴史に対する探求心が養われた。陛下は今も日本中世史の研究を続けられている。
皇后さま、文武両道の日々
皇后さまは1963年12月9日、元外務事務次官の小和田恒氏、優美子さん夫妻の長女として生まれた。恒氏の仕事の関係で幼少期をモスクワやニューヨークで過ごし、71年に帰国。小学3年から私立田園調布雙葉学園小学校(東京・世田谷)に編入し、同学園中学、高校へと進んだ。
中学時代に熱中されたのがソフトボールだ。多摩川河川敷のグラウンドで練習するプロ野球巨人の選手にあこがれ、仲間と創部し、主軸打者として活躍。3年生の時に猛練習が実を結び、チームは世田谷区の大会で優勝した。明るい性格でクラスの人気者だった。
高校1年の時、恒氏がハーバード大に客員教授として招かれたことで再び渡米。ボストン郊外のベルモント高校に通い、81年9月にハーバード大に入学し国際経済学を専攻された。卒業論文は「日本の貿易における石油――輸入価格ショックへの対応」。85年にトップクラスの成績で卒業された。翌86年4月、東京大法学部に学士入学したが、同年10月に外交官試験に合格して東大を中退された。
オックスフォードに学んだ日々
学習院大文学部史学科を卒業した天皇陛下は1983~85年、英オックスフォード大マートンカレッジに留学された。社会経済史学のピーター・マサイアス教授(当時)の指導を受け「18世紀におけるテムズ川の水運」をテーマに研究。河川改修、輸送業者、輸送物資の側面から分析し、英語の論文「交通路としてのテムズ川」をまとめられた。
陛下の学習院大の卒業論文は「中世瀬戸内海水運の一考察」。いずれも水上交通を巡る内容で、陛下がライフワークとされる水に関する問題につながる。
留学中には日本では経験できない自由な生活を楽しまれた。初めてクレジットカードで買い物。パブでビールを満喫し、ジーンズ姿で外出されることもあった。帰国間際には、懐かしい街を歩いてカメラに風景を収められた。オックスフォードでの生活を回想した著書「テムズとともに」で、「さまざまの経験を積むことができたことは、大きな収穫だった」と若い日の思い出をつづられている。
皇后さまは均等法第一世代の外交官
皇后さまは1987年に外務省に入省し、外交官としての一歩を踏み出した。男女雇用機会均等法施行の翌年。外交官試験に合格した28人のうち、女性は皇后さまを含めて3人だけだった。女性の社会進出を映す事例として注目を集め、父の恒氏と親子2代の外交官誕生も話題になった。
試験に合格した皇后さまは「日本は経済的には大国になったが、他の面でもっと国際社会に貢献すべきだ。外務省の一員として新しい道を模索していきたい」と抱負を語られていた。
88~90年には、英オックスフォード大ベリオールカレッジに外務省の研修で留学された。図書館に通って勉強に打ち込み、合間を縫ってテニスやスキーなどのスポーツも満喫。下宿先でホームパーティーを開き、料理を振る舞われることもあった。
帰国後は外務省北米2課で日米間の貿易摩擦問題を担当。当時のべーカー米国務長官やヒルズ米通商代表の来日時には通訳としても活躍した。天皇陛下との婚約が内定したことを受け、93年1月に退職された。
平成のロマンスに喝采
1993年6月9日、天皇、皇后両陛下の「結婚の儀」が皇居・宮殿で行われた。NHKの中継視聴率は30%を超え、皇居から東宮仮御所までの約4.2キロのパレードには、沿道に約19万人が詰めかけた。
元外交官から皇太子妃への華麗な転身。天皇陛下のプロポーズの言葉は「僕が一生全力でお守りします」だった。サッカーのJリーグが開幕したこの年、「平成のロマンス」は世の憧れの的となった。バブル崩壊の影響が色濃くなっていた日本列島は祝賀ムードに沸き立ち、パレードの沿道にあった全ての公衆電話が金色に塗り替えられた。
愛子さまの誕生と成長
結婚から8年後の01年12月1日、両陛下の長女、愛子さまが誕生された。2年前の流産を乗り越えたお二人にとって、待望の第1子。「人を愛する者は人からも愛され、人を敬う者は人からも敬われる」との願いを込め、敬宮(としのみや)愛子と名付けられた。
いろいろな経験をさせたいとの思いから皇后さまが一緒に幼稚園から電車で帰宅されたことも。最近はご一家3人で天体観測も楽しまれているという。宮内庁幹部は愛子さまの成長が「両陛下の大きな支えになっている」と話している。
家族の絆で困難も乗り越え
03年12月、皇后さまは帯状疱疹(ほうしん)を発症し、以降、公務を度々休まれるようになった。半年後の04年5月、訪欧前の記者会見で天皇陛下は「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と発言された。上皇さまが「理解し切れぬところがある」と述べられるなど、波紋が大きく広がった。
宮内庁は04年7月、皇后さまの病名を「適応障害」と発表。療養生活は長く続き、その間には長女、愛子さまが通学に不安を訴え皇后さまが付き添われた時期もあった。苦しい時に家族で支え合われてきたご一家は強い絆で結ばれている。