また苦しみたくて…風と戦った茨城100キロマラソン
ランナーはいったい何キロ走れば満ちたりるのだろう。ランナーである私が問うのもおかしなことだが、ランナーは何キロ走れば気が済むのだろう。
東京マラソンの発足をきっかけに爆発的なランニングブームが起こり、フルマラソンが全国各地で開催されている。もはや42.195キロへの挑戦は、それほど驚くべきことではなくなった。
■喜んで苦しませてもらいます
おそらく42.195キロでは満たされず、それ以上の距離を求め、もっとヘロヘロになりたい、身も心もヨレヨレになりたいというランナーが増えているのだろう。100キロのウルトラマラソンがあちこちで開催されるようになった(数回の開催で消滅した大会もあるが)。
私が1年前から住む地域にもウルトラマラソンが発足してしまった。ふだん走っている北浦(茨城県)沿いでの開催だ。避けるわけにはいかないではないか。喜んで、もだえ苦しませてもらいますという思いに傾き、出場を決意した。
ウルトラマラソンのエントリー手続きを済ませた瞬間に襲ってくるゾクゾクっとした感覚がたまらない。それはフルマラソンのエントリー時には味わえないものであり、ゾクゾクっと震えた時点で高額の参加費のもとがかなり取れているのではないか。ある種の中毒にかかっているのだろうと思う。
体からすべてを絞り出し、ふにゃふにゃになりたいという衝動にかられた私は3月24日、第1回茨城100kウルトラマラソンin鹿行(ROKKO)に臨んだ。スタートは夜明け前の午前5時。行方市を発着点とし、鉾田市、鹿嶋市、潮来市、神栖市からなる鹿行5市を巡る北浦周遊の旅だ。
前日、寒波が到来し、スタート時は零下2度と冷え込んだが、この時点では風がほとんどなかった。ヘッドライトをつけて(10キロ地点で回収)歩み始め、鹿行大橋を渡って北浦沿いを北上すると、東の空が紅に染まってきた。空気が澄んでいる。
どうやら体調はいい。2週間前から起床時間を午前5時、4時、3時、2時半という具合に早めて調整してきたから、午前2時に起きたのに眠気はない。
ただし、十分なトレーニングを積んできたとはいえない。2度、37キロまで距離を伸ばしたものの、大会の3週間前にこなそうと思っていた50キロ走は断念し、本番に向けて脚のバネを戻すことを優先した。
計画では5キロを30~31分ペースで走るつもりだったが、35キロまでは5キロを28分台で進んだ。速すぎるだろうか。そうかもしれないが、これが後半にどのくらいのダメージになるのか計算が立たない。そこが私の未熟なところだ。57歳になり、7度目の100キロマラソンだというのに、いつまでたってもランナーとして熟さない。
34キロのエイドステーションでニット帽をキャップに替え、ネックウオーマーを外し、長袖シャツを薄めのものに替え、ウインドブレーカーは脱いで腰に巻いた。小さなカップで供されるカレーライスを口にする。5分近くロスしたが、気分転換になった。
ここまでは順調。しかし、このあたりから風を感じるようになった。神栖市に向けて南下する間は追い風だからいいが、その後には当然、向かい風が待っている。しかも60キロ地点の息栖(いきす)神社で折り返し、北上を始めてからは基本的にずっと向かい風になる。
それを思うと、気が重くなった。後半の苦悩を想像してしまい、それがストレスになり、気力だけでなく体力さえも奪われていく感じがする。
■風におびえ、あちこちに傷みが…
法学者・哲学者であるカール・ヒルティ(スイス、1833~1909年)の「幸福論」にこんな一節がある。
「恐怖は、その恐れているものが到来するのを少しも妨げない。むしろそれに対抗するために必要な力を、あらかじめ消耗させてしまう。人生でわれわれが遭遇することの大部分は実際、それが遠めに見えるほど恐ろしいものではなく、堪えうるものである」
予想通り、後半は向かい風になり、特に75キロ過ぎは突風をまともに受けることになるのだが、そのだいぶ前に私は向い風を恐れ、それによって心に宿る力を奪われ、抵抗力が弱まり始めていた。ヒルティの説の通りではないか。
おそらく、それとかかわりがあるのだろう。このころから、あちこちに痛みが出始めた。腰がたまらなく痛い。左足の裏の外側が痛む。右足の親指の付け根にできたマメが痛みを発する。腹筋がつってくる。ハムストリングスが張ってくる。その一部は脳のいたずらによる偽の痛みだろう。何しろ、腰の痛みはしばらくすると弱まり、今度は足の親指の爪が痛み始め、またしばらくすると痛みの主役は足の裏に転じるという具合なのだ。向かい風を想像し、おののく私の歩を止めさせようという脳の策略の数々だったに違いない。
鰐川(わにがわ)河畔に立つ鹿島神宮の西の一乃鳥居を過ぎ、70キロを超えると向かい風が強烈になり、75キロ過ぎでは北浦の水が海のように波打った。
たまらず、歩き始めるランナーがいる。それはすぐに伝染する。私も走るより、歩いて楽になりたいという欲求にあらがえなかった。もうタイムなんてどうでもいい。しばらく歩いては走り、そしてまた歩くという繰り返しになった。前後のランナーがそろってそういう状態だった。
このとき、ウルトラマラソンの大スター、スコット・ジュレクが「NORTH 北へ」に記した一文を思い出すべきだった。米国の3大トレイル(山道、自然歩道)の一つであり、約3500キロにわたるアパラチアン・トレイルを睡眠時間を削りながら最速記録の46日8時間7分で走破したジュレクはこう説く。
「もうこれ以上前には進めない、もう絞り出せる力など残っていない。そう思うことはあるものだ。だがそんなとき、だれのなかにも、まだ能力や強い力が隠れていて、見出されるのを待ちわびている」
残念ながら、私は身体の奥に残っていたであろう力を見いだすことができなかった。その力を探し、引き出そうという意志を失っていた。
北浦大橋を渡り、何とか85キロのエイドステーションに到着した。後半はエイドステーションだけが頼りだった。水やスポーツドリンク、カレーやおにぎりやフォー、チョコレートやバナナ、そしてボランティアのみなさんの励ましと笑顔、心をなごませてくれる語り掛けで力を回復してきた。
初開催とは思えないほど運営に抜かりはなく、参加者に大きなストレスを掛けることはなかったと思う。スポーツを軸とする観光による地域振興を目指す一般社団法人「アントラーズホームタウンDMO」がつなぎ目になり、鹿行5市が力を寄せ合ったからこそ成立した大会であり、継続・発展させることで、読みにくい鹿行地域の知名度が上がる。
85キロのエイドステーションで食したおかゆで力を得た。周りのランナーも同様で、歩かず走り続けるようになった。90キロを過ぎると、ようやくゴールが見通せるようになった。向かい風の中、よくここまで来たものだとしみじみ思う。
■「力を振り絞ったか」翌日走り直し
長い旅を終え、11時間23分30秒(ネットタイム)でゴール。前半の50キロを4時間50分でこなしたが、後半は6時間30分を要した。情けない結果であるのに、胸にグッときた。この情動はなかなか味わえない。まさしく、この瞬間のために半日も掛けて走ってきたのだ。
676人が出走し、完走率は77.4%と低かった。コースがフラットなのに、強風がレースを過酷なものにした。風さえなかったら、という思いはあるが、天をうらんではいない。ロードレースとはこういうものだ。
とてつもない労力を費やしたのに大きな褒美を手にしたわけではない。そこがけっこう気に入っている。大いなる徒労。そこがたまらないのだ。ばかげている? それがいいのだ。
実は今回、ゴールしてから、ぐにゃりと座り込むことがなかった。迎えてくれた会社の同僚2人と、立ったままレースを振り返る話をした。翌朝、それを思い出し、無性に腹が立った。
アップダウンがなかったので脚がガタガタにならなかったのだろうが、ゴール後、へたり込まなかったのはレース中、さぼっていたからではないか。向かい風を言い訳にして、力を振り絞らなかったからではないか。
私は深く反省した。その日は休日だったので、午後、コースの75キロ地点に車で向かった(走っても行けるが)。前日、最もだらしない姿をさらした区間の7.5キロ(往復したので計15キロ)を走り直した。そうしておかないと気が済まなかった。
苦悩はしたが、苦悩しきれていない。これではいけない。だからまた、6月にウルトラマラソンを走る。
(鹿島アントラーズ事業部担当部長 吉田誠一)