極限の緊張に打ち勝つ技の一打 WBC連覇
イチローの時代(上)
日米の野球界でいくつもの記録を塗り替え、28年にわたる現役生活に別れを告げたイチローは、自らのバットで数々の名勝負を演じ、偉業を歴史に刻み込んできた。独自の哲学と妥協のない姿勢で野球と真摯に向き合い、ファンを心酔させてきたイチローの功績を、名場面とともに振り返る。
2001年、新庄剛志(メッツ)とともに日本人野手として初めて大リーグに挑戦。最初のマリナーズ時代は、常に孤独と闘う日々でもあった。引退を表明した記者会見では「メジャーリーグに来て外国人であったことで、人のことをおもんぱかったり人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」と語った。
孤独を感じる体験を重ねる中で増していった日本人としてのアイデンティティー。その気持ちの高ぶりを向けられる存在としてイチローが意義を見いだし、強く入れ込んだのがワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表だった。
日本人大リーガーの出場辞退が相次ぐ中、「日の丸のユニホームを着て世界一を決める大会に純粋に参加したい」と臨んだ2006年の第1回大会では、主力打者として王貞治監督の率いるチームを初代王者に導き、大会ベストナインにも選ばれた。09年の第2回大会は、押しつぶされそうな重圧をはね返し、日本を大会連覇に導いた。
2次ラウンド以降、打率1割台と低迷したまま迎えた決勝の韓国戦。大リーグのレギュラーシーズンだけで1万回を超える打席に立ってきた猛者でも「思い出したくない」と後に振り返った場面で打席に立った。3-3で迎えた延長十回2死二、三塁だ。
「敬遠ならどんなに楽だろうと思った。そんなふうに思ったことは初めて。この打席で結果を出せなければ今までの僕は全て消される」。感情を表に出さず、淡々と安打を量産してきた孤高の天才打者が追い詰められた。「恐怖に震え上がっていた」。見ている者にすら緊張感がひしひしと伝わってくる極限の状況。そこで、蓄積してきた技術の粋を発揮した。
韓国の右横手投げ、林昌勇に追い込まれると、厳しいコースはファウルで逃げる。8球目、しびれを切らした林が投じた変化球が甘くなり、それを逃さず鮮やかにはじき返す。お手本のような中前返しの2点適時打が、決勝打となった。
野球の魅力を「団体競技だけど個人競技であること」と語るイチローが土壇場で演じた、投手との1対1の息詰まる駆け引き、攻防。心労のせいか大会後には胃潰瘍を発症し、大リーグで初の故障者リスト入りも経験した。命を削るような代償を払った打席は、見る者の胸を心底揺さぶった。
パワー重視、データ信奉の傾向が年々強まり、あっさりした早打ちが目立つのが現在の大リーグ。こうした現状を憂い、引退に際して「やっぱり日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしい。決して変わってはいけないものを大切にしてほしい」とも強調したイチロー。緻密な日本野球の魅力と底力を存分に示し、日本中を熱狂させた歓喜の決勝戦から10年。ついにレジェンドは幕引きを決断した。
(常広文太)