次の世代、私たちが守る 経験や悲しみ伝える被災者
東日本大震災から8年が経過し、被災経験がなかったり、ほとんど覚えていなかったりする子供たちも少しずつ増えてきた。「今度は私たちが次世代を守る番」と、地震当時の自身の体験や思いを積極的に発信する被災者たちの動きが広がっている。
■自分の言葉で
住民の約1割、1千人以上が津波の犠牲になった岩手県大槌町。町立小中一貫校「大槌学園」9年の三浦七夢さん(15)は2018年10月の学園祭で「震災を体験していていない人も、大槌町であったことを忘れないでほしい」と後輩たちに訴えかけた。
18年秋、町の文化や歴史を学ぶ「ふるさと科」の授業の中で、学びの成果を発信する「語り部プロジェクト」の参加者募集があった。立候補したのはクラスで自分1人。その場で「誰かやらない?」と呼びかけると、3人が応じてくれた。
4人それぞれの震災体験を合わせ、一つの発表を作った。発表の最後に語り継ぐことの大切さについて話すのが三浦さんだ。「大人だけで町を作るのではなく、自分たちの思いも発信して町に貢献できるような仕組みを作りたい」と訴える。これまでに他県の学校や市民が集まる場で4回、発表を重ねた。
語り部の募集の際にすぐ手を上げたのは、これまで自分を支えてくれた地域の人たちの顔が頭をよぎり、「次は自分の番だ」と思ったからだ。
震災当時は小学1年。小学校が被災し、他校の体育館で授業が再開されたが、ついたて1枚で仕切られた隣の教室の声が聞こえて集中できない。沈んだ気持ちでいたら学校の職員がステージで手品を披露してくれた。感動して拍手すると、たちまち元気が出た。
ふるさと科で特産の新巻きザケの作り方を学んだり、町内の職場を訪問したり。地元を知り、人の温かさを感じた。
廃虚のような町を見て育ってきた後輩たちにこそ、古里の人々の優しさを知ってもらいたい。そのために自分の言葉で語ることが大切だと思う。
卒業後、高校でも復興に関係する課外活動に参加し、地元のためにできることを考えていく。将来の夢は保育士。町の将来を担う子供の成長を見守り、被災体験を受け継いでいってほしいと感じている。
■津波の怖さ、語り継ぐ
「大津波が来っから、山さ逃げろ」。宮城県石巻市雄勝地区に住んでいた佐藤麻紀さん(47)は雄勝弁で叫び続けた。地震発生直後、小学6年の長女と同3年の長男が通う小学校に駆け付けた。
子供たちは裏山に逃げ、救うことができた。しかし地区内で入院中の祖母(当時92)と、祖母を助けようとした母(同61)は亡くなった。流された母を探し遺体安置所に1カ月間通い続けた。
しばらくは心の傷が癒えなかったが、他の被災者の勧めで2012年7月、語り部活動をする公益社団法人「みらいサポート石巻」に加わった。
当初は大人向けの活動が主だったが、13年になると、東北以外の地域の小中学校から招かれるようになった。揺れを感じてから避難するまでの語りに30分。学校の許可が得られれば30分追加し、安置所で遺体を見続けた時期のことを伝える。
一昨年ごろから県内の小学校からの要望が多くなった。地震を経験していない子供が増え、「被災状況を話してもトラウマに触れることがなく、むしろ身を乗り出して真剣に話を聞いてくれる」。
山に逃げるよう叫び続けたのは祖母から繰り返し聞かされた言葉があったからだ。「津波っつうのはおっかねえ。海の底見えんだぞ」。雄勝は1933年の昭和三陸地震、60年のチリ地震など津波被害に遭い、恐ろしさが語り継がれてきた。
「今度は私たちが次の世代に命を守ることの大切さを広める」。経験を語り終えると「災害が起きたらどこに避難するか、そこが駄目なら次はどこに逃げるか、家族や大切な人と話し合ってみて」と呼びかける。
当時を思い出すのはつらい。子供たちの前で涙を流すこともある。それでも「命を守るための見えない小さな種をまき、次々と花が咲いてくれれば」と願っている。
東日本大震災から12年となった被災地。インフラ整備や原発、防災、そして地域に生きる人々の現在とこれからをテーマにした記事をお届けします。