日本球界にアジア勢の風、なお中国の影は薄く
スポーツライター 浜田昭八
広島の地方紙「中国新聞」の林記者から以前に聞いた話。大阪などの取材先で、よく「日本語がお上手ですね」と言われたそうだ。中華人民共和国からの「リンさん」と勘違いされたらしい。「ハヤシです」と返答し、大笑いになったという。
プロ野球界にも日本、台湾、韓国の「林」が混在する。台湾出身の林威助(2003~13年、阪神)は「リン」、韓国からの林昌勇(08~12年、ヤクルト)は「イム」と発音するのだからややこしい。
今年、台湾球界のスーパースター、王柏融が日本ハム入りした。世界のホームラン王、現ソフトバンク球団会長の王貞治の呼称は「オウ・サダハル」で揺るぎない。新加入の「ワン・ボーロン」は台湾で「大王」というニックネームで親しまれていたそうだ。日本では果たしてどんな呼び名で定着するだろうか。
来日以来、王柏融の評判は上々だ。台湾で打率4割を2度マークし、17年には三冠王にもなった左打者。さすがと、その実力をほとんどのOB解説者が認めている。25歳と若くて脚力があり、外野守備もいい。チームには清宮幸太郎、吉田輝星のドラフト1位組がいるが、彼らに劣らぬ人気者になるのではないか。
外国人選手といえば、近年はドミニカ共和国、ベネズエラ、キューバなど中南米勢の活躍が目立つ。だが、それより数は少ないが、アジア勢の活躍も目ざましい。
古いところでは1963年に韓国から東映(現日本ハム)入りした白仁天。捕手だったが、打撃と快足を生かして外野手に転向。ロッテなどへ移籍して通算19年もプレーし、75年には首位打者になっている。82年に帰国し、発足したばかりの韓国プロ野球で選手兼任監督を務めた。後に続く後輩たちの日本球界入りへ道をつけた功労者といえる。
■郭泰源に李承燁…韓国、台湾勢が存在感
80年代に入ると、西武・根本陸夫管理部長(当時)が"台湾ルート"を開拓した。これをきっかけに、力のある台湾勢が続々と来日するようになった。西武・郭泰源、中日・郭源治は投手陣の柱になり、源治は88年、泰源は91年に最優秀選手(MVP)に選ばれた。ロッテ・荘勝雄も先発、救援にタフな活躍を見せた。
その後は韓国、台湾勢が競って来日。日本側もアジア勢の潜在能力を高く評価して受け入れた。中でもロッテは李承燁らアジア勢を次々と獲得し、劣勢だった国内補強をカバーした。中日も豪打の大豊泰昭、ストッパー宣銅烈、快足の李鐘範らを加えた。さながらオールアジア軍という感じになった時期があったほどだ。
戦力になる素材が多いとなると、獲得ルートもいろいろと広がる。日本の高校や大学へ野球留学をして、ドラフト指名を待つのだ。大豊(名古屋商科大)や林威助(柳川高―近大)がそうだったし、日本ハム―巨人の陽岱鋼は福岡第一高からの入団だった。仮に日本の球団が留学の面倒を見ても、ドラフトで他球団にさらわれるリスクがある。その辺りの入り組んだ人間関係は、国民性や慣習の違いもあってややこしい。
米大リーグに絡んだアジア勢の動きもあった。韓国から直接米国へ渡った投手の朴賛浩が大リーグ124勝の勲章を提げ、11年にオリックス入りした。だが、37歳の衰えは隠せず、1勝5敗の成績を残しただけ。5月いっぱいで戦列を離れた。逆のケースは14年に31歳で韓国から阪神入りした呉昇桓。ストッパーを2年務めて39、41セーブ。2年連続セーブ王となり、その後ステップアップして大リーグへ向かった。
このほか、09年のセ最優秀防御率の中日・チェン、パワー溢れる打撃を披露したオリックス―ソフトバンクの李大浩、巨人・呂明賜のスイング、韓国のイチローと異名をとった中日・李炳圭の巧打などが印象に残っている。ただ、オールアジアの陣容を形成するには、スポーツ大国でもある中国の参加がほとんどないのが寂しい。中国籍の朱大衛が07年から西武投手陣に名を連ねたのが極めて少ない例。その朱も小学5年生のときから日本で暮らしドラフト指名を受けた、実質的に日本選手といえる存在だった。
08年北京五輪を前に中国の野球熱は少し盛り上がった。だが、20年東京五輪の後、野球は実施種目から除外されるとあって、人気下降が気遣われる。日本球界は野球後進国へコーチや用具を送り、普及に努めている。だが、世界的に盛り上がるサッカーの勢いに押されがちだ。アジア勢を日本プロ野球へという前に、野球そのものを世界の人々に理解してもらうのが先決ではないか。
(敬称略)