稀勢の里引退 貫いた小細工なしの真っ向勝負
17歳で新十両、18歳で新入幕、19歳で新三役。歴代の大横綱をなぞるようなスピード出世だったことを思えば、稀勢の里が横綱としての責任を全うしたとはいえない。だが、優勝2回という記録以上に鮮烈な記憶を残す力士だったことは疑いない。武骨な取り口、スリリングで浮き沈みの激しい相撲人生に、ファンは時にため息をつき、時に手を打って喜んだ。
平成の大横綱白鵬の前に立ちはだかったのは、いつも稀勢の里だった。2010年九州場所で63連勝、13年名古屋でも43連勝で白鵬の進撃を止めた。かと思えば優勝に手が届きそうな一番では力を発揮できず、13年夏、16年夏の白鵬との全勝対決で苦杯をなめた。17年春には左大胸筋などの痛みを押して千秋楽に強行出場、本割、優勝決定戦と照ノ富士に連勝して感動的な逆転優勝を飾った。見る者の心を揺さぶる相撲を取り続けてきた。
部屋をまたいだ力士のなれ合いが目につく昨今の角界で、群れることなく、小細工なしの真っ向勝負を貫いた。白鵬が「稀勢関が私を磨いて、燃えさせてくれた」と語るように、人気一番の稀勢の里と対峙する相手は対抗心をむき出しにした。必然的に意地がぶつかり合う熱戦に。稀勢の里がいなければ、この10年の大相撲は随分味気ないものになっていたはずだ。
好角家にひいきされ、そのひいきと裏腹の批判も背負わされた。若くして関取になり、亡き先代師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)に「(期待を背負って)それらしく生きなければいけない」と説かれた。だがその期待の大きさゆえに、不振となれば必要以上にたたかれた。大一番では緊張から目をしばたたかせ、たびたび重圧につぶれた。三役で長らく足踏みしたころ「(自分は)このまま終わってしまうんじゃないかという怖さがある」と漏らしたことがある。
それでも、ひたすら耐えた。器用さは持ち合わせていない。頑強な肉体と愚直に磨いた馬力の相撲を信じた。「日々の相撲に一つひとつ努力すること。結果は後からついてくる」という先代師匠の教えを守った。優勝争いから脱落しても、昇進の道が絶たれても、気持ちを切らすことなく土俵に上がり続けた。そこに稀勢の里の強さがあった。
左大胸筋などのけがの影響は大きく、横綱昇進時に語った「もっともっと優勝したい」という夢はかなわなかった。だが、稽古に精進して全力で一番一番ぶつかっていった姿は、記録以上に大切な力士の本分を示していた。
(金子英介)