貫く信念今も 千葉すずさん、引退20年で築いた場所
競泳 千葉すず(1)
アスリートが全力で戦い、泣き、歓喜する五輪の舞台も、彼らの長い人生ではほんの一瞬に過ぎない。そこで何をつかみ、次の道をどう切り開いてきたのか。NIKKEISTYLEオリパラでは、「未完のレース」と題してアスリートの引退後をたどる。初回は1992年のバルセロナ大会と96年のアトランタ大会に競泳で出場した千葉すず(43)。2000年のシドニー大会の前には、日本水泳連盟による代表選考のプロセスが不透明だとして、日本選手として初めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に訴え出た。引退とともに報道される機会がなくなって20年。信念を貫いてたくましく歩み続ける姿を、スポーツライターの増島みどりが描く。
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千葉すずが会場に足を踏み入れると、一瞬で室内の空気が変わった。
「あれぇ、オッチャンばっかりやね」
海風を受ける中央公民館に集まっていた30人ほどの参加者を見渡し、若者や女性より男性が多いとみるや、そう声をかける。率直な物言いとユーモラスな関西弁、何よりもその笑顔に、オリンピックスイマーを迎え、少し緊張していた参加者たちから笑い声と拍手が沸き、会場は柔らかな空気に包まれた。
2018年12月、島根県・七類港からフェリーで2時間半、隠岐諸島の西ノ島で「隠岐ユネスコ世界ジオパーク再認定記念シンポジウム」が開催され、千葉はゲストとして「水を通しての出会い」と題した基調講演を行っていた。2000年の引退後、島根県浜田市三隅町のスポーツ施設「アクアみすみ」の記念式典に出席したほか、水泳教室を開催するなど、島根との交流は長く、深く続いてきたという。
講演会は大手代理店が主催するような大規模で有料のものではなく、30人ほどを相手にする。ひな壇もスポンサーもなければ、条件交渉もメディアへの告知もしない。
しかしそこが、引退して以来、自ら望み、自分の力で築いてきた特別な場所なのだ。
人数限られた講演会も全力で
和やかな会場でこう続けた。
「日本人でありながら、そして日本代表をしていながら、日本について本当に全然知らなかったんだと、現役を引退し改めて思っています。日本が嫌だ、と、海外に出て行った人間が、実は何も日本を知らず、説明もできなかった。そう考えていたタイミングでご縁を頂き、こうして素晴らしい西ノ島に来るチャンスをもらいました」
「日本代表をしていながら……」
2000年の引退からすでに20年がたとうというのに、オリンピック代表という重責に今も真摯に向き合うかのようなコメントだ。
競泳女子の主将を務めたアトランタ五輪では、チームが不振に終わり批判を受けるなか、「オリンピックを楽しみに来たんです」「日本人はメダルだけを評価する」と発言し、批判はさらに大きくなった。
20年以上経過した今、「楽しむ」は代表選手誰もが口にする、むしろポジティブなワードとなり、メダルばかり数える報道は疑問視されるようになった。当時は、日本のスポーツ界を取り巻く環境が、千葉について行けなかったのだろう。
事実、20年ぶりの取材機会で知ったのは、競技者として、オリンピアンとして何を還元すべきかという難しい波を、力強く泳ぎ続けてきた43歳の等身大の姿だった。
講演会の評判は紹介サイトや代理店から持ちかけられるのではなく、実際に話を聞いた人の口コミで広がる。
「ありがたくも、私の話を聞きたいと本当に思ってくださる方のところでお話したいんです」と言う。条件ではない。
だから、中小企業の研修や土木関連、原子力発電所で働く人々、それが青森でも西ノ島でも、人数が限られていても、全力で「モチベーションアップ」「元気な毎日」といったテーマについて話そうと出掛ける。昨年は30回を超えた。
水泳の縁から、14年には三隅町の特産でユネスコ無形文化遺産に指定されている「石州半紙」のPR大使にも就任した。役所や工房関係者との初会合に出席した際、「6000軒あった工房、よくも4軒にまでしましたねぇ」と、率直にあいさつした。お飾りの大使ではなく、本気でPRしようと勉強してこその厳しい指摘だ。
手間をかけて作っても和紙は売れない。そうした循環を改善しようと、独特な風合いを生かし、和紙のウエディングドレスを千葉が自ら作り、地元の結婚式で着てもらった。
4児の母、教育現場からも声
4人の子どもを持つ母親として、教育現場からも声がかかる。子どもたちとの交流は一日で終わることなく、長く続けている。
身体障がい者と健常者が一緒に泳げる場も提供する。
「別々に泳ぐのではなく、一緒に泳げる機会を少しでも提供したかったんです。5年かけてやっとここまで来ました」と明かす。
安全上の理由から、障がい者が使えないプールは多い。そんな壁を突破しようとする熱意とレッスンの楽しさに、今では大阪で10か所、両者を同時に指導するイベントが定着した。アピールはしなくとも、2度の五輪出場をかなえた競技者が東京五輪にどう向き合い、何を残すべきか自問自答した結果だ。
中1、小6、小3、小2と4人の母でありながらフットワークは軽い。
「ウチは子どもたちにもセルフサービスを徹底していますから大丈夫。親に頼って何もできない子になったらアカン、普段から自分のことは自分でしていれば、お母さんの出張くらい大丈夫でしょうって」と優しい表情で笑う。近大水上競技部で13年から監督を務める夫・山本貴司(40)は最高の理解者だ。
タブレット画面の中で、子どもたちがママ手作りの服を着て笑顔を浮かべ、近所の介護施設に通うご老人のために、と作成した何十枚ものエコバッグも並ぶ。
隠岐諸島では、高齢化で漁業を離れる人が増加し、不要になった縁起物の大漁旗が倉庫に眠っていると聞き、手先の器用さから大漁旗でエコバッグを作り、販売してはどうかと提案した。自然と、そこに暮らす人々、生活が一体となる好循環を目指す「ジオパーク」の定義に一致するプランは大歓迎され、今年、隠岐諸島で実現しそうだ。
講演では、中学生で仙台からオリンピックを夢見て大阪の名門「イトマン」へ単身留学した話、欠点をまず指摘する日本の指導になじめず米国、カナダへ留学した経緯などが約1時間、彼女らしくオープンに語られた。
「ジオパーク認定記念? あれ、全く関係がなくなっていますが、大丈夫ですか? ハイ、すみません、もう終わっちゃいます」
そう言うと、会場はまた大きな笑いに包まれた。
「楽しかったぁ、元気になったよ。ありがとう」
「オッチャン」たちはそう言って、千葉の手を強く握りしめた。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1975年8月、横浜市出身(実家は仙台)。中学生で五輪を目指し、強豪の大阪イトマンスイミングスクールへ単身留学した。90年の日本選手権で自由形3冠。91年世界選手権で400m銅メダルを獲得した。世界的に選手層が厚い自由形で、日本女子のメダル獲得は五輪・世界選手権を通じて初の快挙だった。92年バルセロナ五輪(200m自由形6位、400m同8位、メドレーリレー7位)と、96年アトランタ五輪(200m自由形10位、800mフリーリレー4位)に出場。2000年シドニー五輪に挑戦するも日本選手権で優勝しながら落選した。同年10月の現役引退後は、アテネ五輪200mバタフライ銀メダリストの夫・山本貴司氏(40=近畿大水上競技部監督)と2男2女を育てながら、島根県浜田市三隅町の「ユネスコ無形文化遺産石州半紙PR大使」を務めるほか、講演活動や障がい者と健常者を一緒に指導する独自の水泳教室も行う。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師