北島康介さんが出会った「ブロッコリー先生」
経営者として五輪に挑む(2)
「下町育ち」「江戸っ子」とよく言われるけれど、ずっとそこにいる僕には分からない。少なくとも都会に住んでいる感覚はなかった。
日暮里は繊維街であり、当時は駄菓子問屋横丁もあった。駄菓子街は昭和30年代で時が止まったような、いかにも「昭和」という風情。その横丁のど真ん中で暮らし、遊んでいた。繊維街は活気を取り戻していますが、横丁は高層マンションになってしまいました。
母は教育熱心で、小中学校は文京区へ越境入学しました。日暮里駅を超え、坂を上り、千駄木まで歩くのは、小学生にはなかなか大変でした。この辺りの区分けは複雑で、荒川、文京、豊島、北の各区が入り組む。僕は高校は豊島区へ、大人になってからの練習拠点は北区。競技のために早くに地元を離れる選手が多いけれど、僕はずっと同じエリア。おかげで幼なじみとの交流はずっと続いています。
4歳の時、幼稚園の友達の親が、東京SCの短期教室に連れていってくれた。すぐ「面白い。習いたい」とせがんだそうです。5歳で入るとトントン拍子で進級し、選手コースに入って全国大会に出るようになった。試合に出る喜び、メダルをとる喜び、全国の人と戦う楽しさ……。ステップを踏んで味わえたのは恵まれていたと思う。水泳漬けの日々になり、入っていた野球チームは辞めました。
五輪を意識するようになった小学4年の頃、バルセロナ五輪があった。記憶にある初めての五輪です。僕は同じ種目、平泳ぎの林享さんにくぎ付けでした。五輪100メートル予選2位になり、「すげえ、メダルだ」と決勝はテレビにかじりついていた(結果4位)。この記憶は強烈で、現役時代「子供に『こうなりたい』と憧れられる選手になりたい」と思った原点です。
東京SCは付近では厳しい練習で有名でしたが、やめたいと思ったことはない。むしろ当時通っていた学習塾をやめたかったんですが、それは母が許してくれなかった。そんな母も水泳は楽しんでいた。タイム競技だから、子供の成長が分かりやすいからでしょう。どんな小さな大会でも僕の泳ぎをビデオで撮ってくれた。この映像は後に、平井先生が僕を直接指導する時、小さい頃の泳ぎを知る参考にしてくれたそうです。
平井先生は当時、まだ東京SCの一コーチ。子供クラスをたまに教えにやってきた。パーマをかけていてブロッコリーみたいな髪形だったから、「ブロッコリー先生」って僕は呼んでいた。口数は多くないくせにこんなことを言い出すガキはいないので、先生の目に止まったのかもしれない。後で聞いたら、先生もよく覚えていました。