選手発掘に一役 大リーグが力注ぐ「脳トレ」
スポーツライター 丹羽政善
ここ数年で、大リーグのデータ化は別次元に入っている。その流れの中で、どのチームも少しでもアドバンテージを得ようと、能力の数値化、その分析に力を注ぐ。今回はそんな様々な試みの中から、脳科学を巡るアプローチについてまとめてみたい。
2017年、イチローのスイングスピードが速くなった、という原稿を3回に分けて紹介した。
仮にインパクトの瞬間の時速が90キロから100キロに上がったとして同じポイントで打つ場合、始動を約0.015秒遅らせることができるという。国立スポーツ科学センターの森下義隆さんに算出してもらった。
■「0.015秒の大きさ」とは…
では、この0.015秒とは打者にとってどのような意味を持つのか。イチローに聞くと「そりゃ、大きいよ」と言って、言葉を継いだ。
「全然、違う」
150キロの球の場合、0.015秒で約60センチ進む。つまりは60センチ分、打者は長くボールを見られる。ストライクかボールか。球種は何か。0.015秒には情報が詰まっている。
結局、どれだけ速くストライクかボールかを見分けられるか、あるいは軌道からどれだけ速い段階で球種を見極められるか。その判断が速ければ速いほど、打者には準備の時間ができる。イチローが言っている「0.015秒の大きさ」とはそういうことだが、その能力は当然、打者有利に働く。
そのことに目が向けられるようになったのは、18年のア・リーグ最優秀選手(MVP)に輝いたムーキー・ベッツ(レッドソックス)の存在がきっかけか。
彼は高校時代、野球とバスケットボール、ボウリングの「三刀流」アスリートだった。現在はボウリングでもプロとなり、17年のボウリングのワールドシリーズで300点をたたき出すほど。身体能力の高さには、各球団のスカウトも一目置いた。
ただ、その一方で彼の場合、175センチという身長の低さゆえ、プロでの成功は難しいと考えられていた。
12月10日付の「身長は問題じゃない 躍動するメジャーリーガー」でも紹介したが、12年の調査では175センチ以下の選手は過去、メジャーリーガー全体の11.6%しかいなかった。
成功するかどうかというより、ドラフトの時点でふるいにかけられていた。
しかし、レッドソックスが11年のドラフト前、ベッツに米ケンブリッジにある「ニューロスカウティング」という研究所が開発した脳科学のテストを受けさせたところ、球種やストライク、ボールの認識力が飛び抜けて高かったというのである。
レッドソックスは5巡目で彼を指名すると、3年後の14年にメジャーデビュー。翌年の春には、ベッツの持つ能力が報じられるようになり、その後の活躍によって一段と脳科学と野球の能力の相関性をデータでひもとく試みが注目されるようになっていった。
さて、そうしたデータを提供する研究所の一つが、ニューヨークのソーホーに拠点を置く「デサーボ」というベンチャー企業である。
12月9日、NHKのBS1で「スポーツ イノベーション 大谷翔平×MLB革命」という番組が放送され、その中で取り上げられた(29日午前9時からBS1で再放送)。
その取材に関わることになったきっかけは1冊の本。18年春、野球と脳科学の関係性を扱った「ザ・パフォーマンス・コーテックス」という本が出版され、そこでデサーボのことが詳しく紹介されていた。
起業したのは、米コロンビア大で博士研究員として神経工学の研究をしていたジェイソン・シャーウィン氏と同じくコロンビア大で脳科学を研究していたジョーダン・ムラスキン氏の2人だ。11年秋から構想を練り、翌年の春から大学の野球選手の協力を得て、実験を開始。13年に「MITスローン」という様々なスポーツ関係者が集う会合で研究結果を発表すると、多くの球団や投資家から問い合わせがくるようになった。
■28球団が興味を示すまでに
その後、16年春には複数の球団がドラフトした選手をテストさせることに同意。実際の現場でデータを取り始めた。その1年後には計28球団が興味を示すまでとなっていく。
その彼らが開発したのが「uHIT」というアプリだ。体験版をダウンロード可能だが、「uHIT」でわかることは、大きく分けて2つ。一つは人間の脳はストライク、ボールをどの時点で判断しているのか。そしてその正確性。もう一つはどの時点で球種を判断しているのかとその正答率。
テストはタブレットやスマートフォン(スマホ)を用いる。まるでゲームのように奥から手前に迫ってくるボールに対し、たとえばストライクなら画面をタップし、ボールと判断すれば何もしないといった具合。1セッション30球で、終了時には平均の反応時間、正答率が出る。後者はコース別の確率も明らかとなる。
データは大リーグの全球場に設置されているスタットキャスト(投手が投げる球の回転数、変化量などがわかる)という動作解析システムから得ており、全投手の軌道が疑似体験できる。
また、頭部に脳波を測る機器をつけて「uHIT」を行うことで、たとえば脳がどの時点で「振れ」という指令を出しているのか、そこから始動に必要な時間もデータ化できる。
わかりやすくいえば、これまで漠然と「動体視力がいい」「反射神経がいい」と評価されていた部分を可視化し、それをつかさどるものとは何かを探る取り組みでもある。
では、そうしたデータが実際の現場でどう生かされているかだが、そもそも「uHIT」はテストのために開発されたものであるが、トレーニング用でもある。
まず、最初にテストを行い、その後、定期的に「uHIT」を使用することでどんな効果が表れるかが問われる。その点についてデサーボのシャーウィン氏に聞くと、「個人差があるので一概にはいえない」と断りつつも、こう続けた。
「我々は今、反応時間と正確性を加味した『uHITスコア』という概念を採り入れ始めたところだ。今年、たとえばストライクゾーンの認識において、『uHITスコア』は、10セッションした選手で平均3%アップした。最多で140セッションした選手もいて、50%以上も『uHITスコア』がアップした選手もいる」
以下がそのデータだという。
週3~5回、最低でも1日に1セッション以上してもらい、その都度、データを収集した結果だという。これを見る限り、回数が増えれば増えるほど、「uHITスコア」は高くなっていく。そのことは別のデータからもわかるという。
最初の25%のセッションと最後の25%のセッションでは、後者のほうが「uHITスコア」が高い。効果が出るようになるにはある程度の回数をこなすことが必要、ということのよう。
そして、「uHITスコア」が顕著に反映されるのは出塁率だそうで、そうしたデータも徐々にそろい、それぞれが信用度の高いものとなってきたようだ。
■各球団もまだ体系化に苦心
もっとも、こうしたデータがそろい始めたのはまだ最近のこと。データをどう活用するのか、各球団もまだ、体系化に苦心しているというのが実情か。
ただ、野球と並行して、彼らが作った解析システムはすでに他の分野でも応用され始めている。
実は、初期のころからの投資家の一人だという米独立系投資銀行モーリス・アンド・カンパニーの上級副社長を務めるジーンマリエ・ジアンニさんは、そうした将来性まで見越して、投資を決めたと話す。
「彼らの考えには、可能性が詰まっている」
ジアンニさんはかつて、フランスの2部リーグながら、プロのサッカー選手だった。ゴールキーパーだった彼は当時、反射神経の訓練をしていたそうだが、「実にアナログだった」と振り返っている。
「ストップウオッチを押して、どれだけ速く止められるかということをやっていた」
その効果を実感することはなかったそうだが、「ジェイソンからアイデアを聞いたとき、多くのスポーツに求められていることだと感じた」と言い、プロアスリートならではの嗅覚がそこで働いた。
「uHIT」が野球の審判のトレーニング用として改良されたのは想定の範囲内だが、今はホッケーの審判のトレーニング用に応用できないか模索が続く。さらに今後、他のスポーツにも展開できないか、多様性が試されている。
野球に話を戻すと、ドラフトされ、マイナーで「uHIT」を使い始めた選手が、そろそろメジャーに上がってくるころだ。そうした実質的な1期生がメジャーでどんな結果を残すのか。デサーボが想定する選球眼の向上、コンタクト率のアップなどが数字として表れるかどうか。
それは同時に、脳科学と野球の関連性がどうなっていくのかを占うものになるのかもしれない。