名スーパーバイザー、半世紀のボクシング人生に幕
今年も多くのアスリートが現役生活に別れを告げた中、半世紀以上にわたり関西ボクシング界を支えた黒子もリングを去った。日本ボクシングコミッション(JBC)関西事務局長を務めた岡根英信さん(71)だ。
7月29日、京都での世界ボクシング機構(WBO)女子アトム級タイトルマッチでスーパーバイザーを務めたのが最後の仕事になった。同月、やはりスーパーバイザーを務めたWBOミニマム級タイトルマッチでは、防衛を逃した後に硬膜下血腫が判明した山中竜也がJBCの規則で引退。岡根さんのボクシング人生の幕引きに合わせたような引退劇だった。
岡根さんもボクシングに青春をささげた一人だ。10代の頃はファイティング原田、海老原博幸、青木勝利の「フライ級三羽がらす」や関光徳、川上林成らがひしめく群雄割拠の時代。自身も拳一つで名を成そうと出身地の大阪のジムに入門した。だが、後に東洋王座を獲得する後輩のアポロ嘉男らを見て「世界に行くやつは違う」と痛感。20代前半でグローブを置いた。
そこでボクシング界にとどまるきっかけをもたらしたのが、後に島木譲二の芸名で吉本新喜劇をにぎわすことになる、ジムの先輩の浜伸二。JBC関西事務局の仕事をしていた浜さんの「手伝いに来いや」の一言で、ボクサーを支える側に転じた。
試合の進行やバンデージのチェック、グローブの配布など様々な仕事に取り組んだ中で、特に思い入れが強かったのは2人一組で行うタイムキーパー。主担当の時は左手にストップウオッチ、右手に木づちを持ち、相棒との厳格な時間管理のもとにゴングを鳴らした。
■貫いた中立 後進の飛躍願う
強打を受けた選手が倒れ、レフェリーが「ダウン」のコールをした直後に「ワン、ツー……」とカウントを始めるのもタイムキーパーだ。倒した側の選手をレフェリーがニュートラルコーナーに移動させる間、ノックアウトまでの残り時間を数える大事な役目。眼前で選手が倒れたことにうろたえて「ダウン」の声が出ない新人レフェリーを、怒気を含むカウントダウンで"覚醒"させたことは一度や二度ではない。レフェリーや医師の手配を含め試合の運営全般を取り仕切るスーパーバイザーのころは、若いジャッジにあいまいな判定基準を問いただしたこともある。全ての行動の根底には「中立、公正」のモットーがあった。
敗れたボクサーが帰らぬ人となるケースに遭遇したことも。ともに大阪のジムに所属した名城信男と田中聖二が、日本スーパーフライ級の王座を懸けて拳を交えた2005年の一戦が深く印象に残るのは、それだけの激闘であったことに加えて、敗れた田中が程なくして急性硬膜下血腫で死亡したこともある。
スーパーバイザーを務めていて、あまりに激しい打ち合いにリング下から試合停止を呼び掛けたことも少なくない。前途ある若者が命を落とす場面に接して強くなった「ボクサーを守りたい」との思いが、試合進行の全権を握るレフェリーに進言する「越権行為」(岡根さん)に駆り立てた。
当初は薬問屋に勤めながらボクシングの仕事に携わっていたが、やがて独立して起こした事務機器販売業でも奮闘。営業で顧客を回れば「担当者だけでなく、事務員の方を含め一人ひとりにあいさつするようにした」。この経験は、JBCのスタッフとしてどのジム関係者とも一定の距離を保ち、中立の立場を貫くことに生きたという。
10代後半から50余年にわたったボクシング人生に幕が下りて思うのは「私が育てたレフェリーが順調に伸びてほしい」ということ。誰とも等距離で接する実直さから多くのジム会長らに慕われ、関西ボクシング界の発展に貢献した自身の功績には触れず、切に後進の飛躍を願う姿は、どこまでもニュートラルな名スーパーバイザーらしかった。
(合六謙二)