心の異変抑え献身の打席 プロ野球・小谷野栄一(38)
引退模様
体のけがなら治療すればいつかは癒える。だが心の奥の異変を抑えこむのは並大抵のことではない。野球人・小谷野栄一のプロとしての歳月は、その大半が終わりなき闘病の日々と重なった。
日本ハム時代の2006年の2軍戦。打席で倒れそうになり、その場で吐いた。初めは「風邪でもひいたのかな」と軽く受け止めたが、症状は深刻さを増していく。試合への不安や恐怖感で満足に眠れず、やがて外出もできなくなった。パニック障害だった。
思ったことを行動に移すという普通のことがままならない。「何のために生きているのか」。心配する同僚の視線が好奇の目に思えて「殺気に近い恐怖感を感じた」。
実家での静養後、チームに戻った小谷野を2軍監督代行の福良淳一の言葉が救った。「何回でもタイムをかけていい。好きなだけ時間をかけていい。まず打席に立つところから始めよう」。その年の秋季教育リーグ(フェニックス・リーグ)で4本塁打。病は続いていたが、復帰を待っていた同僚たちの大声援は「一生の宝物」だ。
首脳陣からみて「計算のできる選手」を目指した。「一番確率の高いことを当たり前のようにやれたら、1軍で使っていただける。それが積み重なればレギュラーにもなれる」。その献身の気持ちが10年、打点王のタイトルに導いてくれたと思っている。
アマチュアでは経験がなかった4番をプロで打つまでになりながら、12年は中田翔の成長もあって2番や6番に移り、リーグ最多の40犠打。主軸も脇役も不足なく務めた働きは、ベンチの「計算」をどれほどたやすくしたことか。
15年、オリックスにフリーエージェント移籍。日本ハムの主力となってからは1軍ヘッドコーチとして小谷野を見守った福良が首脳陣にいることが、選択の決め手だった。「あのときの恩があったので。恩人は絶対に裏切れない」
引退試合となった18年の最終戦は、3年間監督を務めた福良のラストゲームでもあった。プロ16年間のうち12年を一緒に過ごした師と幕引きが重なる奇縁。その試合は「それまでにないくらい吐いた」。壮絶な闘病は最後まで変わらなかった。
病はしかし、ただ憎いばかりのものでもなかった。「いろんなことに感謝できるようになったのも病気のおかげ」。プレー以前に生きることのありがたみを心底感じたことが、一瞬たりとも気を抜かないプロ意識の根底にあった。
引退して間もなく楽天の打撃コーチに就いた。「選手のやりたいことを受け入れる。そういう器を自分が築き上げれば、みんなに幸せな野球人生を送ってもらえるんじゃないかな」。指導者として、福良のように「人のいいところを見られる人間」を理想に掲げる。
=敬称略
(合六謙二)