立ち合いの乱れ 「駆け引き」には限度がある
大相撲九州場所は11日、福岡国際センターで初日を迎える。9月の秋場所は史上初の幕内1000勝と14度目の全勝優勝を飾った横綱白鵬が復活を印象づけたが、気になったのは終盤戦の立ち合いの乱れ。「駆け引き」にも見える立ち合いはどこまで許されるのだろうか。
■待ったの末、あっけなく決着
賜杯レースが佳境に入った11日目の大関高安戦、優勝を決めた14日目の大関豪栄道戦はともに立ち合いが2度不成立となった。前者は1度目が手を付きかけた白鵬を見て高安が先に突っかけ、2度目はなかなか手を付かなかった白鵬が「待った」。そして3度目は高安は完全に立ち遅れ、一方的に白鵬が押し倒した。後者は白鵬が1度目は明らかに早く突っかけ、2度目は手を付けるそぶりがなく自ら嫌った。3度目は白鵬がすぐさま右四つ左上手の万全の形に持ち込んで豪栄道に完勝した。注目された2番はあっけなく決着がつき、特に高安戦は拍子抜けするほどだった。
白鵬が立ち合いの駆け引きを仕掛けたようにもみえるが、実際どうだったかはわからない。ただ、何もできぬまま尻餅をついた高安には、もっと考えた立ち合いをしてほしかったと思う。立ち合いが2度合わなかったことで、3度目はどこかに迷いや萎縮はなかったか。相手が駆け引きをしてきたとしても、それに惑わされるのではなく、大横綱を自分の立ち合いに合わさせるくらいの気概で向かっていくべきだった。もちろん白鵬の立ち合いも褒められたものではない。待ったをすると、お客さんからヤジが飛んできたり、審判長から注意されたりして、並の力士ならそっちに気を取られて集中できなくなるもの。だが、白鵬は待ったのプレッシャーなどみじんも感じさせなかった。最後はどういう人間が勝つかといったら、精神的に強い人間が勝つ。白鵬にはずぶとさがあった。
言うまでもなく、立ち合いは互いに合わせなければならない。わざと突っかけたり、手をつかなかったりするのは見苦しいし、待ったの連発は場をしらけさせる。ただ、互いに呼吸を合わせることが難しいのも確か。自分の現役時代を振り返っても、最後の待ったなしのときは館内が静まりかえり、立ち合いは相当な集中力が求められる。特に優勝や昇進、勝ち越しなどがかかる終盤の大事な一番になると、いつも以上に緊張感が張り詰め、慎重になりすぎることもある。立ち合いを合わせるのは大前提ではあるけれど、勝負事でもあり、絶対に合うとも限らない。何も考えずに立つ力士はいない。やはり多少の駆け引きは存在する。
相撲は勝敗の半分以上を立ち合いが占めるといわれているほど重要なものだ。相手より先に攻めて圧力をかけられれば、押せる、差せる、まわしを取れる、といくらでも攻めることができる。逆に立ち合いから後手に回った方は、上体を起こされ、まわしも引けず、踏ん張ることで精いっぱい。攻めることすらかなわず、一方的に負けることになる。
また、立ち合いが合わなければ、あっと思った瞬間には相手が来ていて、変化するつもりはなくても体が勝手に反応して横に逃げてしまうことだってある。自分も相手に合わせすぎてしまって、ぶざまな相撲を取った苦い経験がある。そうならないために、相手の動きをしっかり見ながら自分の立ち合いを心がけ、いかに相手より早く立って優位な体勢に持ち込むことに神経を研ぎ澄ます。そういう中での多少の駆け引きはあってもいいとは思うが、やはり限度というものがある。
■常識の範囲内でやるべきもの
審判として土俵下から見ていると、あからさまに立ち合いの駆け引きをする力士がいる。全く立つ気が見えなかったり、あえて突っかけたり。初顔でどういう立ち合いをする力士かわからないから、見え見えの待ったをして相手の出方をチェックする者もいる。見ている方からすれば、すごくわかりやすい駆け引きをしている。これは関取衆だけではなくて、幕下くらいの若い衆にもいえること。もちろん度がすぎる力士には怒る。互いがそんな自分勝手なことをやっていたら、立ち合いなんて絶対に合わなくなる。駆け引きといっても、常識の範囲内でやるべきものだ。
小さな駆け引きの中で、互いに正々堂々とした立ち合いでぶつかる。それで負けたら「まだまだ自分は弱い」と自覚して、稽古場で徹底的に立ち合いを磨けばいい。若い衆は小ずるいことをして勝っても、番付が上がったら通用しないだろう。関取衆にしても下の者の見本になるような力士にならないといけない。そもそも待ったを繰り返して立ち合いが乱れれば、見ているお客さんはつまらないだろうし、相撲自体がしらけてしまう。待ったを百パーセントなくすことはまず不可能だろうが、やはりプロとして相手と呼吸を合わせていく意識が大切。全ての力士が肝に銘じなければならない心構えだろう。
(元大関魁皇)