明治を映す外国人仕様 並河靖之七宝記念館(もっと関西)
時の回廊
明治の近代化の躍動が伝わってくる施設がある。海外でも知られた七宝家(しっぽうか)の名を冠した並河靖之七宝記念館(京都市東山区)だ。記念館は並河靖之(1845~1927年)の旧邸宅を公開施設にしており、建屋や庭から展示品まで明治の実相を丸ごと映し出す。
七宝で世界に名
工芸品の七宝は金属などの素地に釉(ゆう)を焼きつけて装飾した品。技法は古くから伝わっていたが、明治に飛躍的に発展した。並河は花・鳥・蝶(ちょう)や風景を優美に表す花瓶や皿などを制作し、海外でも高く評価された。
並河は川越藩京都留守居役京都詰役人の三男として京都で生まれ、その歩みは明治の社会変革の影響を大きく受けた。子供のころに門跡寺院、青蓮院(東山区)の坊官職の家に養子に入る。1873年ごろに副業として東山三条の白川沿いで七宝業を始め、78年に専業にした。89年のパリ万国博覧会での金賞など数々の賞を受賞し、日本を代表する七宝家として名声を得た。
並河は「有線七宝」と呼ばれる技法を用いて制作した。これは図柄の輪郭線に沿って線状にした金や銀などを貼り付け、その線の間に釉薬(ゆうやく)をさして図柄を表す技法。中でも、黒が背景色の作品は図柄が引き立つと評判を取ったが、釉薬のわずかな乱れも目につくため高い技量が求められたという。
その制作場所が、記念館として公開されている旧邸宅だ。主屋と展示室に改装された旧工房、庭などからなる。並河が七宝家として絶頂にあった94年、ほぼ現在の形に整えられた。
鴨居の高さ工夫
主屋は京都で多く見られる町家形式「表屋造り」。道路に面した部分に店の棟、その奥に居住の棟を配置し、この2つの棟を玄関でつないでいる。
居住棟の座敷の内法(うちのり)(敷居から鴨居(かもい)までの高さ)の寸法は、明治らしく外国人を意識している。旧並河邸のそれは約182センチで、京都工芸繊維大学の日向進名誉教授によると「標準的な住宅より10センチほど高い」。当時、七宝は輸出品になっており、作品の購入に並河邸を訪れる外国人の体格に配慮したためという。
庭の池の水が絶えず入れ替わる造りも明治という時代だからこそなし得た。この水は明治に開削された琵琶湖疏水から引いており、個人宅の疏水の利用は並河邸が早いものだった。
作庭は並河の隣に住み、親しくしていた七代目小川治兵衛が担った。小川は後に平安神宮の庭園などを手掛け、作庭家として名を成すが、その初期の庭として貴重だ。
七代目の子孫の作庭家、小川勝章さんは、庭の観賞に適した場所として池に張りだした主屋の縁側をあげる。眼下の池に並河が愛玩したというコイが泳ぎ、正面に大きな赤松がどっしりと立つ。要所に石灯籠などの石造物。小川さんは「若かった七代目の『こんなことも、あんなこともしたい』という思いが伝わってくる」と話す。
明治から大正初期は並河邸の周囲に七宝事業者が20軒ほどあったとされる。それほど栄えた七宝業だが、第1次世界大戦が勃発したころから衰えた。人件費や物価の高騰、外国人客の減少などが理由とされる。
現在、記念館の周囲で、七宝の看板を掲げた事業者は見られなくなったという。開館15周年を迎えた同館が往時の「京都七宝」を伝えるばかりだ。
文 編集委員 小橋弘之
写真 大岡敦
庭には沓脱石(くつぬぎいし)や石橋、手水鉢(ちょうずばち)など多数の石造物が配置され、中でも12基ある石灯籠は見どころだ。