人が人を裁く難儀 VAR時代も不変
ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)を初めて導入したワールドカップ(W杯)ロシア大会。幾つかの事例を見て思うことは、サッカーの判定で悩ましいものは機械に頼っても悩ましいということである。
かつて審判はプレーを一番間近で見ている人として、その決定を尊重された。テクノロジーの発達によってその座がテレビカメラに取って代わられて久しい。反則の有無を微に入り細に入り、映像で確認できる視聴者はそのメリットを大いに享受し、審判、つまりは人間の目の節穴ぶりをあざ笑うようになった。
VARはその攻撃に耐えられなくなった審判がついに、映像の助けを借りる決断をしたということだと理解している。
個人的にゴールラインテクノロジーの導入には賛成だった。ボールがゴールラインを越えたか否かは機械的に判定できるからだ。いずれ、オフサイドにも先端技術が使われる気がしている。
今はボールが蹴られたとおぼしき瞬間に画像を止め、オフサイドラインに線が引かれて判定の参考にされている。が、画像を止めるタイミングはどこまで正確なのか、いつも疑問に思う。いっそのこと、ボールと選手のユニホームやシューズにチップを埋め込み、ボールを蹴った瞬間と選手の座標を特定できる仕組みを構築したら、もっと厳密に判定できるのではないだろうか。
それに比べてVARはややこしい。映像を通して解釈するのは結局審判という名の人間だから、万人を納得させるのは不可能に近い。
1次リーグD組最終戦のアルゼンチンのロホのハンドもそうだった。ナイジェリア陣営は明白なハンドでPKだと主張した。しかし、主審は故意ではないとした。私は主審の判断はまっとうだったと支持している。
昔から変わらぬハンド成立の原則がある。まずは意図の有無。「手からボール」へ当てにいったら反則だけれど、「ボールから手」に当たったのであれば反則にはしないということ。
手の位置も問題。手が体から不自然に離れていると思われたらハンドになる。逆に至近距離からシュートを打たれて手に当たってもハンドにならないことも頻繁にある。手の位置が動作の流れの中で自然であり、しかも人間の反射神経では避けることは不可能だったと判断されたら。
日本の香川のシュートを腕で止めて退場になったコロンビアのC・サンチェスは、挙げた手の位置が不自然と主審に認定されたわけである。
ロホの場合、ヘディングでクリアしたボールが偶然、自分の手に当たっただけに見える。これをPKにしたら、ハンドにまつわる定義が根本から狂ってしまうだろう。
こうやってハンドの認定にも幾つかの解釈のハードルがある。それらを理路整然と説明しても、厄介なのはロホの一発に沈んだナイジェリア陣営が納得することはまずないということ。
VARの先にはおそらく、人工知能(AI)による判定があるのかもしれない。そうなっても、AIが示す判定が無欠であるという保証はない。それもまた一つの解釈にすぎないからだ。一つの判定をめぐって賛意と悪罵が常に交錯し、両者が歩み寄ることはおそらく永遠にない。それがサッカーというものである。