午前4時の電話、ついえたバブルの夢 シーガイア破綻
九州・沖縄 平成の記憶
新世紀を迎えた高揚の余韻が世の中にまだ漂っていた2001年2月19日、午前4時。宮崎市のリゾート施設、シーガイアの屋内プール「オーシャンドーム」の支配人だった柿野貞男さん(70)は、鳴り響く電話で目を覚ました。
こんな時間に何が――。ざわつく思いで受話器をとると、電話は「1時間以内に集まってくれ」とだけ告げて切れた。
1時間後。ホテルの会議室に緊急招集された幹部らが聞かされたのは、にわかに信じがたい言葉だった。「この会社はなくなりました」
どよめきの中、管財人が淡々と「備品には手を出さないでください」と言葉を継ぐ。倒産すれば会社の財産は債権者のものだからだ。法的な破綻手続きの説明が、柿野さんの耳にはどこか別世界のように遠く響いた。
超高層ホテルに世界最大の屋内プール、多数言語を同時通訳できる国際大会議場――。平成のバブルの熱狂の中、豪華絢爛(けんらん)を極めて建設されたシーガイアは、開業からわずか7年でその幕を下ろした。
大阪で製紙会社を創業した故佐藤棟良氏が1966年、出身地の宮崎市にホテルを建設。それを基に80年代に宮崎観光の目玉にと計画されたのがシーガイアだった。87年施行の総合保養地域整備法(リゾート法)も後押しし、93年にオーシャンドーム、94年には施設全体がオープンした。
「宮崎県にとって大きな財産になると期待していた」。柿野さんは振り返る。大理石の粒を敷き詰めた人工ビーチや、屋内プールでの高さ2.5メートルの造波技術は当時、画期的そのもの。水着での入社式も行われ、経験したことのない華やかさに心が躍った。
一方で、どこかには「本当にお客が集まるだろうか」という心配もあった。建設中にバブルは崩壊していた。事業費は2000億円を超えたが「みんな必死。言い出しにくい雰囲気だった」。
不安は的中する。年間500万人を見込んでいた入場者数は、ピーク時の95年でも約386万人、99年には300万人を割った。入場者数の発表のたびに重苦しい雰囲気が立ちこめ、競うようにアイデアが湧き出ていた企画会議は、皆が押し黙るようになった。
結局、当時の運営主体の「フェニックスリゾート」は一度も黒字化することなく01年に会社更生法を申請。負債総額は第三セクターで過去最大の3261億円(関連会社含む)に達した。
多くの人が会社を去った。柿野さんも電気工事会社に再就職した。残った社員の状況も厳しかった。基本給は大幅カットされ、冬のボーナスはゼロ。外資が入り、社内には英語が飛び交った。当時、物販に関わる部署にいた男性(63)は「当時、子供は大学1年と高校1年。不安で不安で仕方なかった」。ローンが残る築浅のマイホームは手放さざるを得なかった。
フェニックスリゾート副社長だった中村浩さん(86)は「採算がとれない」と当初からシーガイアに反対していた。それでも建設が決まれば懸命に走るしかなかった。子供の運動会にも出られないほど必死に働いた。
オーシャンドームがあった海岸沿いには今、東京ドームより広い更地が広がる。屋内の人工ビーチは姿を消し、本物の砂浜を海風がなでてゆく。空漠としたバブルの夢の跡に、中村さんは「あれは何だったんだろう」とむなしさをかみしめる。
リストラや訪日客誘致といった経営再建努力の結果、近年のシーガイアは軌道に乗っている。統合リゾート施設(IR)機運の盛り上がりに乗ろうと、将来のカジノ誘致の可能性も探る。ただ、中村さんの胸にはとげのような苦みが消えない。「どこか、前と似ている。歴史が繰り返されなければいいが」(藤田翔)