殻破れぬ錦織圭に欠けている最後の1ピース
スポーツコメンテーター フローラン・ダバディ
テニスの四大大会第2戦、全仏オープンのキャスターとしてパリに行ってきた。男子シングルスの優勝は今年もラファエル・ナダル(スペイン)。全仏では2年連続11度目、32歳にして直近5つの四大大会で3度優勝という充実ぶりだ。
2017年以降の男子テニス界は世界ランキング1位のナダルと36歳にして同2位のロジャー・フェデラー(スイス)が東西の横綱として君臨している。大相撲の本場所に相当する四大大会で、昨年以降の6大会は2人が3回ずつ優勝を分け合っている。
■実力も実績も別格の2人
彼らは並の横綱ではない。キャリア通算の優勝回数はフェデラーが史上最多の20回、ナダルがそれに次ぐ17回。これは白鵬と千代の富士のような大横綱2人が同時代に生きているのに等しい。実力でも実績でも2人は格が違う。錦織圭を含めたほかのトッププレーヤーたちは大関がいいところ。残念ながらそれが現実だ。
現在のスポーツ界は、富が再生産される資本主義の果てまできている。市場原理とグローバリゼーションの拡大で、富める者ほどさらに多くを手にできる。ジェフ・ベゾスやビル・ゲイツは億万長者の中でも桁が違うし、米国と中国は抜きんでた大国だ。サッカーならレアル・マドリードとバルセロナが別格だろう。
テニス界も同様だ。フェデラーの年収は70億円、ナダルは50億円といわれる。日本で毎年秋に開催する楽天オープンが彼らを呼ぼうとすれば、賞金とは別に5000万~7000万円の出場料を支払わなければならない。こうなると彼らは、すずめの涙ほどの賞金しか出ない国別対抗戦、デビス杯などには関心が薄れていく。男子ツアーを主催するATPも各国のテニス協会も彼らには何も言えない。スター選手は誰よりも"エライ"のだ。
サッカー日本代表の監督だったバヒド・ハリルホジッチ氏の解任にも僕はどこか似たものを感じた。彼は日本的な"政治的正しさ"を欠いていたため、気の毒なことにワールドカップ(W杯)直前にしてお役御免になってしまった。本田圭佑はNHKの番組で前監督に批判的な発言をしていたが、いうまでもなく日本代表は彼のチームではない。
■ハリウッドにも通じるスポーツ界
選手の名前が必要以上に幅を利かせる現在のスポーツ界は、ハリウッドにも通じるところがある。ハリウッドでは映画の興行成績が、ストーリーの出来や脚本家、演出家の能力で決まるのではないことを誰もが知っている。そこで有名監督ののれんを借りる「フランチャイズ」的なマーケティング戦略が取られることになる。間もなく公開される「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」もそのひとつだ。もともとは有能だが知名度の高くない若手監督が指揮を執っていたが、ディズニーは撮影終盤になってその仕事を名匠ロン・ハワード監督に引き継がせた。サッカー日本代表とよく似た話ではないか。しかし、こんな継ぎはぎをして作品の完成度が上がるかといえばそれは難しい。
全仏での錦織圭について触れておきたい。4回戦でドミニク・ティエム(オーストリア)に覇気なく1-3で敗れた翌日、僕はマイケル・チャンコーチにインタビューをした。マイケルは幻滅していた。錦織がなぜ、ローランギャロスのセンターコートという最高の舞台で自分の殻を破れないのか、理解に苦しんでいた。
ティエムは確かに素晴らしい出来で力強かった。それにしてもいきなり2-6、0-6はないだろう。錦織は過去3年にも見せた、所在のない「敗者の空気」を漂わせていた。この試合に懸ける情熱や、最高の舞台に立てる高揚感や幸福感に欠け、そこで思うプレーができない自分への怒りさえ感じられなかった。
米フロリダのテニスアカデミー「IMG」の先輩でもあるアンドレ・アガシは以前、「錦織は自分自身の力を最大限に引き出せる状況に自分を置いていないようにみえる」と話していた。今年4月、強豪を次々と倒して決勝まで進んだモンテカルロの錦織は輝いていた。美しいコート・ダジュールに触発されたかのように、最高のテニスを見せていた。
■フロリダから転居してみては?
錦織本来のテニスには繊細で芸術的な味わいがある。芸術家には「美」と「愛」が必要だ。僕には世界で最も美しい大会であるモンテカルロという舞台が錦織の力を引き出したように思われる。「圭、フロリダを出てモンテカルロに居を構えよう」と呼びかけたくなる。もしくは伊達公子さんの指導を仰いでみるのはどうだろう。画竜点睛(がりょうてんせい)。注文の多い彼女ならば、錦織に欠けている最後の1ピースをもたらす一助になるはずだ。松岡修造さんとのコーチ2人体制もいいかもしれない。
サッカーではワールドカップが始まった。僕は土壇場での監督交代に懐疑的な見方をしてきたが、だからといって日本を応援していないわけではない。「本田のゴールで8強進出」というサプライズは大歓迎だ。スポーツでは何より結果がモノをいう。結果が出るまでの間、取材をし、異論を投げかけ、ため息をついては喜び、最後の最後に「自分が間違っていました」と認めること。スポーツジャーナリストはそのためにいる。健闘を祈る。