為末大氏に聞く 20年東京五輪のアスリート像
日本のアスリートが強く、たくましく、多彩に成長している。それを印象づけたのが平昌五輪・パラリンピックでの大活躍だった。2年後の東京五輪・パラリンピックでは、どんな進化した姿をみせてくれるのだろうか。日本のアスリート像について、元陸上選手の為末大氏(39)に聞いた。
――平昌五輪で日本は冬季五輪史上最多のメダルを獲得した。2年前のリオデジャネイロ五輪のメダル数も夏季五輪史上最多だった。強くなっただけでなく、アスリートの考え方や競技と向き合う姿勢、社会とのかかわり方なども変化していると感じる。
「メダルが増えたのは国などの支援で資金が増え、選手強化の体制が整ってきたことが大きい。特に情報や科学を重視するようになり、それを選手にフィードバックして強化に生かせるようになった。平昌でのスピードスケート陣の活躍がそれをよく示している。さらに、国際化が進んで海外でトレーニングしたり、海外からコーチを招いたりするようになったこと、インターネットによってさまざまな情報を得られる時代になったことなどが、アスリートの進化を促していると感じる」
――国際化によってアスリートの成長にどんな効果が生まれるのか。
「たとえば陸上なら、米国のチームに行くと、英国人もジャマイカ人もフランス人もいる。世界中の事情がわかり、自分のやり方がそのどこに位置しているかを理解できるのが大きい。たとえば無人島にいると自分の背が高いとか低いとかもわからない。外に出るとそれがわかってくる。日本で自分は大型選手だと思って練習していても、世界だとそうではない。大きさが自分の武器にはならないとわかる。さらに肌感覚で世界のトップがどんなレベルかもつかめる。自分の能力ではこの分野は無理だけれど、こっちなら戦えるとか考える。私のときは、走力では勝てないけれどハードリングはかなりいけそうだとわかった。それで意識が変わり、成長につながった」
■「ゆとり世代」がなぜ強い?
「今の若者たちはサッカーの中田英寿さんや野球のイチロー選手(マリナーズ)らの活躍を子供のころにリアルタイムで見て育った。その前の世代にとっての『キャプテン翼』のようなフィクションの物語が、現実に目の前で起きていた。だから力んで頑張って世界に挑むぞという感じではなく、自然体で世界の舞台に立つ。そのマインドセットの違いもとても大きいと思う」
――日本のアスリートの中核はとかく批判されがちな「ゆとり世代」となった。そこから野球の大谷翔平選手(エンゼルス)やフィギュアスケートの羽生結弦選手(ANA)のような、かつての日本では考えられないレベルのアスリートが登場している。
「ゆとりとひも付けてよいかはわからないが、世の中が型にはめていくというより、個性を生かそうという雰囲気に変わり始めた時代に育ったこともあると思う。自分の裁量によって自由に使える時間が増えた。そうなると目標を定めて自分を律して努力を続ける選手は、そこで勝手に学習して成長していく。なんだか裁量労働制をいち早く導入したみたいだ。天才がそうした仕組みにはまると突き抜けることができるのだと思う」
「よいことばかりではない。放っておかれると頑張れない選手たちは伸びなくなる。昔はスパルタでなんとか引き上げてきた選手が、それをやらないから成長しない。トップクラスとそこそこのレベルの選手たちの差は開いてきている。この状況はスポーツ以外の世界でもあるのではないか。昔は個人を律するための約束事がたくさんあって、がんじがらめで窮屈だった。今はそういうものがないと自分を律することができない人は置いていかれる気がする。どちらが優れたやり方とは決められない。天才を育てる仕組みとみんなを育てる仕組みは違うのだと思っている」
――メダルの数が増えただけではない。平昌では日本のメダリストたちの言葉の力、語る力にも驚かされた。スポーツ選手は口べたで自己表現が苦手というイメージは遠い昔のことのようだ。
「トップアスリートは試合で厳しい局面に追い込まれるだけに、自分の奥深くに触れる体験を持ち合わせている。大勢の人が見ている中で、次のプレーの成否に4年間のすべてがかかるなんて状況は、日常ではまず味わえない。自分が勝つことで相手の夢を奪うこともある。そんな経験をすれば、自分と向き合って自問自答し、どんな気持ちで競技に臨むべきなのかなど思考も深くなる。そうした部分をコーチやチームに丸投げするアスリートもいるが、自分で思考するタイプのアスリートは、もともと語るべき言葉をたくさん持っている」
「インターネットの影響も大きい。自分で情報を手に入れ、発信もするようになり、日本のスポーツ界特有の閉じられた世界が壊れつつある。昔と違って、発言をすることはよいことだと考えるコーチや選手が多くなった。コーチとの関係が上意下達ではなくなり、互いに議論したり、競技の世界を超えて他の分野のさまざまな背景を持つ人々と意見を交換したりする機会も増えている。ただ、こうした傾向は冬季競技を中心に活動の舞台がいや応なく海外となるアスリートほど強いと感じる。国内で主な活動ができる夏季の有力競技まで変化が広がるにはもう少し時間がかかりそうだ」
■アスリートの成績と人格は別もの
――日本のメディアや社会にはメダリストを聖人君子のように持ち上げる風潮がある。一方で、アスリートが関わる不祥事も少なくない。
「平昌で活躍した選手たちは、発言や競技に取り組む姿勢も本当に素晴らしく、アスリートの地位を高めてくれた。ただ、本当はアスリートの未熟なところや、そこからの成長も楽しめたらいいなと思う。優れたアスリートは勝負というものに執着している。自分を振り返ってみても、体を使って勝つということに特化された偏りがある。思い込みが強くないと、絶体絶命からの大逆転なんてとてもできない。それは魅力的でもあるが、社会や組織の中に入ると手を焼くタイプも多い」
「私も勝利に執着するタイプだったので、現役を引退してセカンドキャリアに進んだころは、どうしたらこの世界でみんなに勝てるかしか考えなかった。持っているパイを奪い合うという感覚だった。実際の社会ではパイを大きくして相手とウィンウィンの関係をつくることが重要になる。それがわかるようになるまで数年かかった。競技で結果を残しても人格まで優れているわけではなく、中身は一人の若者にすぎない。人格が磨かれるのには時間がかかる。そう考えて見てほしい。今はアスリートへの期待値が実像以上に高くなっていると感じる」
――2020年の東京では、国際結婚したり日本に移住したりした両親から生まれた、多様なルーツを持つアスリートも活躍しそうだ。陸上の400メートルリレーは金メダルも夢ではなくなってきた。一方で、彼らを従来の日本代表とは違うと考える人もいるようだ。
「国籍とは違ったルーツを持つ代表選手の存在は、移民が当たり前の米国や植民地を持っていた欧州では珍しくない。日本がむしろ特別なのだと感じる。陸上の男子短距離の金メダリストの国籍は様々だが、何代かさかのぼれば多くのルーツにジャマイカがみつかる。アフリカ系選手に限らず、多様なルーツを持つアスリートの方が競技におけるパフォーマンスが高いともいわれている。私も彼らの活躍が日本人とは、という概念を広げてくれると考えている」
■「スポーツに社会の空気変える力」
「(日本国籍以外の選手も多い)ラグビーの日本代表は3年前のワールドカップ(W杯)で大人気となった。結果を出しただけでなく、(日本で生活する)彼らが共有している日本人的なものが感じられたとき、一気に共感が広がった印象がある。それがとてもいいなと思った。スポーツには社会の空気を変える力がすごくある。(陸上男子短距離の)サニブラウン・ハキーム選手(米フロリダ大)は、話すと中身はまったくの日本人。彼らの活躍によって、これからは外見や人種によって日本人かどうかを見る感覚から、考え方や感性に日本人らしさが宿っているかという意識に変わってくるのではないか」
「国などへの帰属意識というかアイデンティティーへのこだわりがなくなることは将来もないだろう。ダイバーシティー(多様性)が進んだ社会になると、逆に不安を感じてアイデンティティーを求めることが必要となる面もある。国、地域、学校など、スポーツはそうしたアイデンティティーを求める意識と結びつきやすい。ただ、それを持ちすぎると排他的になる。日本はもともとその傾向が強くなる事情もあり、兼ね合いがすごく難しい。20年の東京でさまざまなタイプのアスリートが活躍して、そのちょうどいい加減が見えてくるといいと思う」
――20年東京五輪・パラリンピックで日本を含めてどんなアスリートの登場を期待するのか。
「五輪はやはり国別対抗戦であり、国籍を超えたスポーツ大会になることは難しいと思う。ただ、国の代表であると同時に、別の軸を持っていてもいい。アスリートが交流サイト(SNS)などで自分が背負うものや戦う理由を発信できる時代となった。性的少数者(LGBT)であるとか、幼いころにいじめを受けたとか、そうしたことを表明して戦うアスリートが増えるのではないか。それに共感して国籍とは別の理由で応援する人々もいる。パラアスリートを考えるとわかりやすい。同じような境遇で苦しんでいる人に勇気を与えることにもつながる」
「アスリートにはそれぞれ国の事情や宗教などさまざまな背景があるが、何年も厳しくて苦しい戦いを続けてきた同士としてわかり合い、互いにリスペクトが生まれることがある、平昌五輪のスピードスケートの小平奈緒選手(相沢病院)と李相花選手(韓国)のように。それがあると本当に日本らしいとも思う。2年後の東京でそういうシーンをたくさん見たい」
(聞き手は編集委員 北川和徳)