死から目をそらすため? 人が走り続けるのは…
編集委員 吉田誠一
昨秋からの私のマラソンシーズンはかなり悲惨なものになっている。厳しく冷え込んだ昨年12月17日の、はが路ふれあいマラソン(栃木)は3時間50分43秒に終わった。後半、粉雪がちらつき始めた極寒との闘いは体にこたえた。
11月23日の大田原マラソン(栃木)で3時間59分41秒という自己ワーストを記録したのに続く惨敗。その後、でんぶの筋肉のひどいこわばりがなかなか取れず、3週間も走らずに過ごした。
1月8日ににわかに活力が戻り、再び走り始め、5日後に56歳の誕生日を迎えた。ここでようやく現状を把握し、何かを誓うという状態になった。
とにかく近年は練習量が少なすぎる。2011年には年間3500キロをこなし、13年も3100キロを超えたが、16年、17年は年間2500キロに終わり、ピーク時より1000キロも減った。これで記録を狙おうなどというのは間違っている。
月間450キロが当たり前という状態にしなければ、再浮上のきっかけはつかめないのではないかという極端な考えが突如として浮かんできた。その意気込みでランニングを再開した。
目安は週間100キロかな、なんてことを考えながら走り始め、第1週は80キロをこなした。しかし、押し寄せる寒波に負け、情けないことにまた走量が落ちてきている。
■自分にとってランニングとは
こんなことを繰り返しながら、私はいつまで走り続けるのだろうか。ランニングを完全にやめようという思いには至らない。やめる理由が見つからない。
ただし、「なぜ走り続けるのだろう」という問いが、頭の中に大きな疑問として存在している。その点で、もやもやしている。
自分にとってランニングとは何なのだろう。趣味の一つであるのは間違いない。「趣味は?」と問われれば、その一つとして「ランニングです」と答える。
しかし、趣味とは何なのだろう。趣味は何のためにあるのだろう。人が生きていくうえで、趣味はどういう力になっているのだろう。
そんなことを考えていると、フランスの思想家、ブレーズ・パスカル(1623~62年)の「パンセ」にある「気晴らし」に関する言及に目がいく。
パスカルの話はこんなところから始まる。
「人々は、死もみじめさも無知も免れることができないので、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとした」
人は死すべき境涯に定められていて、それを突きつめて考えると何によっても慰められないから、生まれながらにして不幸なのだという。だからこそ、気晴らしとして賭け事や狩りに夢中になるのだという。
ここでいう「気晴らし」とは死から目をそらすためのものだが、ランナーとしては次の言葉が気になる。
「真の幸福は、賭け事で獲得できる金銭や狩りで追いかけ回す野兎(うさぎ)のうちにあると人々が考えているわけでもない。そんなものは、差し上げますと言われたら、欲しくなくなってしまうのだから」
「そうではなくて、私たちの考えをそらせ、気を紛らわせてくれるような騒ぎを求めているのだ。人々が獲物より狩猟を好む理由はそこにある」
獲物を手にできたかどうかが問題ではなく、獲物を追いかけ回した行為そのもの、そのプロセスが楽しいのだと人はよく言うが、それはつまり、いつかやってくる死から目をそらせるためなのだと指摘されると、なるほどと思う。
ランナーも根源的なところでは、結果=記録を欲しているわけではないのかもしれない。だから、いい結果が出たとしても、次に向かう。それは向上心という言葉で説明されるが、実は記録という「獲物」ではなく、もがき苦しみながら走っている「騒ぎ」を求めているからなのかもしれない。
■仕事も「気晴らし」の一つ?
パスカルの論に従うと、余暇は死から目をそらすためにある。走ることも、そのためにあると考えられる。人を夢中にさせるものが死を意識の外に追いやり、人を不幸から遠ざけ、幸せにする。
こうやって考えていくと、仕事も死から目をそらすためにあるのではないかと思える。仕事も余暇もすべての行為が気晴らしの機能を持っている。仕事に明け暮れているのも、パスカルがいう「不幸」ではないということになるのではないか。
人はかつて生きるために狩猟をして駆け巡っていたが、それは単に「食物を得る=生きる」ためではなく、「気を晴らす=強い生命力を維持する」ためだったということになる。
だから私は走っているのだろうか。惨敗で打ちのめされてもまた走り始めるのは、立ち止まり気晴らしを失うことで思考がどんどん内向きになり、死について考え始めてしまうのを避けるためなのだろうか。
死から目をそらすために、私のどこかで「走れ」というスイッチが入るようにできているのだろうか。私が「なぜ走るのか」の答えを得ぬまま、ほぼ自動的に走ってしまうのはそういうことなのかもしれない。心を健全にして生きるために私は走るのかもしれない。
その考え方は、私が抱いている「何かのために走る」のではなく、ナチュラルに「走りたいから走っている」という感覚を説明することになりそうだ。
そこで今度はウェールズ出身の哲学者、マーク・ローランズ(1962年~)の「哲学者が走る」のページを繰ってみる。
極度に功利主義的な時代だからこそ、走ることをも何かの目的達成のための手段として捉えてしまいがちだ。健康のため、ダイエットのため、ストレス解消のため。ランニングには目的達成のための価値(道具的価値)がある。しかし、そればかりではないと、ランナーでもあるローランズは唱える。
「走ることは道具的価値をもっている。(中略)だが、道具的価値だけが走ることの価値ではない。道具的価値は走ることがもつ第一の価値ですらない」
何かのために何かをすることには、むなしさがついて回る。それについてローランズはこう説く。
「それ自体の外に目的をもつものは何一つとして、生きることを骨折りがいのあるものにするものにはなりそうもない。なぜなら、目的をその論理的な帰結まで追求していくと、最終的には生きることへと帰結するだけだからだ」
これには説明がいる。そのためにローランズはドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー(1889~1976年)の文章を引用している。
「人が槌(つち)打つためにハンマーをふるのは、何かを固定するため、それは家をより安全なものにするため、それは嵐から身を守れるようにするため……とつながっていって、最後には現存在(人間)を生かしておくためとなる。価値は目的から生じ、最後にここで目的が終わる」
こういう具合に、ほとんどすべてのことが「生きるため」に帰結する。この論を展開するとこうなる。
「私たちが生きることの価値を見つけたいのなら、人生の意味、または意味の一つになりそうなことを見つけたいのなら、目的をもたないものを見つけるべきなのである」
「無価値こそが、真の価値の必要条件なのだ。何かの価値が他の何かにとっての有用性であるなら、価値はその他の何かにあることになってしまうからだ」
そして、それ自体が無価値であるものとは遊びであり、当然ながら、その一つがランニングであるという。どんな道具的な理由から走ろうとも、ランニングには非道具的な本質、フォーム(形相)があると断ったうえで、ローランズは主張する。
■おそろしや、ランニング
「走ることの目的と価値はそれ自体に内在する。走ることの目的と価値は単に走ることなのだ。走ることは、人生において目的がストップする場所の一つである。このようなものとして、ランニングは、人生を骨折りがいのあるものにできることの一つなのである」
なぜ走るのかという問いへの答えはたぶんない。「人は走るから、走る」としかいいようがない。走ることは生きることなのだということにもなるのかもしれない。
まだ私にはよくわかっていない部分があるが、走ることは死から目をそらせるための気晴らしであるという考え方と、走ることの目的と価値は単に走ることにあるという考え方は重なる気がする。
どうやら「なぜ走り続けるのか」という問いは意味をなさないようだ。走ること自体に価値がなく、どう考えても目的がストップしてしまう終着駅なのだから。この問題を考える必要はたぶんない。
しかし、また別の問いが浮かぶ。走ることによって、私はなぜ、こうまでして「小難しいこと=どうでもいいこと」を考えるようになってしまったのか。
おそろしや、ランニング。