応挙が演出 仏の世界観 大乗寺(もっと関西)
時の回廊
江戸期の人気画家、円山応挙とその一門が13人がかりで作品を納めた寺が兵庫県香美町にある。応挙が画題を練り、自ら筆を執るだけでなく、間取りに応じて弟子を適材適所に割り当てた。全13室の襖(ふすま)絵や障壁画など165面のどれもが力作で、いまや国の重要文化財。それにしてもこの力の入れようはなぜだろう。
部屋ごとに画題
山陰海岸国立公園から山の手が迫るあたりにその寺はある。大乗寺だ。
柔和な表情の老人が、戯れる7人の童子に慈愛に満ちたまなざしを向ける。描かれたのは中国・唐代の高官・郭子儀(かくしぎ)と孫たち。長寿と子孫繁栄を祝う画題だ。
「応挙はもう一つ、重ねようとした意味がある。理想の政治家です」と山岨(やまそば)真応副住職が説明する。郭子儀は安禄山の乱を平定するなど国難を救い、人望も厚い功臣だった。
ほかでもないこの部屋の画題を政治家とした動機は、仏教の世界観に根ざしている。この襖絵が描かれた客殿の通称「芭蕉(ばしょう)の間」は、仏間の南側に位置している。仏教では東西南北をそれぞれ守護する四天王の思想がある。南を守る増長天は、一方で政治をつかさどる。だからこの方角の部屋に描かれるべきは、理想の政治家という理由だ。
客殿は2階の2室を除き、仏間を核としてらせん状に囲むように大小10室が巡らせて設計されている。増長天だけでなく仏間の東西北にあたる部屋には持国天(経済・生産)、広目天(芸術・文化)、多聞天(生命・医療)の役割分担にそれぞれ合わせた画題が配されている。
言い換えると、部屋一つ一つが、仏教の世界観と重ねて読み解くことのできる画題を配しているという趣向だ。
「応挙はふすま個々の大きさ、隣り合う構成といった間取りの詳細はもとより、建物の周囲がどんな景色かまでを織り込んで、部屋ごとにふさわしい画題を練り、弟子に割り振ったようだ」。18世紀絵画が専門の佐々木丞平・京都国立博物館長は語る。いわばプレイングマネジャーとして陣頭指揮したとみる。
このうち角部屋の芭蕉の間と隣り合う2室を応挙が担当。それ以外は子の応瑞(おうずい)ほか、源琦(げんき)、芦雪(ろせつ)、呉春(ごしゅん)など、後に四条派・円山派の山脈をなすそうそうたる顔ぶれが手がけた。
売れっ子がなぜ?
応挙は当時の京都文化人名録ともいえる「平安人物志」(1775年版)でも、画壇の筆頭。その画力は禁裏が認め、いわば宮内庁御用達だっただけでなく、門跡寺院や豪商の三井家もひいきにしていた。押しも押されもせぬ大家だ。
そんな売れっ子画家に舞い込んだ制作依頼。京都府亀岡市生まれの応挙にとって、出身地でもない地方の寺に、なぜここまで労力を割いて関与したのか。
通説では大乗寺住職、密英が修業中の応挙を支援したことが背景という。ただ、恩義の深さや親密ぶりを示す書簡は残っていない。
「襖絵や屏風を単品で注文に応えるのでなく、建物全体の空間デザインを総合的に任されたら、芸術家として意気に感じるのではないか」。若い頃この寺に泊まって調査したという佐々木館長はそう考える。
画家にとって創作意欲をかき立てられる依頼ほど、名誉なことはない。そんな気迫を一連の作品は伝えている。
文 編集委員 岡松卓也
写真 為広剛
土地の人にはむしろ「応挙寺」の方が通りがよいようだ。石垣の構えが重厚で、手のかかった彫刻の山門をくぐると軒の長い唐破風の屋根が迎える。一部2階建ての構造もそうだが、本堂より客殿の方が大きいのも寺としては珍しいという。拝観料800円。