バドミントン奥原希望「東京五輪へまずは体づくり」
バドミントン女子シングルスの奥原希望(22、日本ユニシス)にとって、2017年は酸いも甘いも味わった濃密な1年となった。8月の世界選手権(英グラスゴー)では日本女子シングルス初の世界一という快挙をなし遂げた一方で、シーズンを通してけがに苦しんだ。激闘の日々を振り返ってもらうとともに、今シーズン、そして20年東京五輪への思いを語ってもらった。
――ケガを抱えてのシーズンの幕開け。その中で世界一という栄冠を手にした。
「17年はまず世界選手権までに納得いく試合ができればいいと考えていた。けがをしたままシーズンがスタートして、なかなか結果を出せずにもやもやしていたが、少しずつパフォーマンスも結果も右肩上がりになっていった。ぎりぎり世界選手権を前に(6月末の)オーストラリア・オープンで優勝して、やっと戻ってこられた感触があった。世界選手権については、東京五輪に向けて自分の立ち位置がどれぐらいなのか確かめようと臨んだ大会だったが、試合中に勝ちたいという気持ち、勝負したいという気持ちを再確認した。そこから1戦1戦勝つためには何をやらなきゃいけないのかを考えて、最後あの結果(優勝)につながったと思う(16年9月に右肩を痛め、同年の全日本総合選手権を棄権していた)」
■けがを乗り越え、いろいろ発見
――プレースタイルを変えて、新しい自分になっての立ち位置を確かめたかったか。
「自分もけがを乗り越えて新たにいろいろな発見があった。視野が広がって、それを確かめたかった。リオデジャネイロ五輪を経て、新たな選手が出てきたり今までいた選手の伸び具合も変わってきたりしているので、それに対しての自分の立ち位置も確かめたかった」
――世界選手権で調子が上がっていった。
「意図したものではない。本当はどの大会でも万全の準備をして万全のコンディションで臨めるのがベスト。自分としては納得がいっていない。けががあったからこそ勝負にこだわりすぎず、目の前のことに集中できたのはよかったかもしれない。でも東京五輪にその状態で臨むとしたら焦りしかない。東京五輪へは全ての準備をして万全の状態で臨みたいと思っている」
――山あり谷ありのシーズンだった。1年を通して成長したところはどこか。
「毎年いろいろなことがあって、たくさんのことを学んで感じて考えている。今年は新たに肩のけがをした。今までは下半身のけが、特に膝をメインに向き合っていた。(肩のけがを機に)全身に目を向けて、体全体を見直そうと取り組んできている。全身を見ることで周りの人たちの体も見えるようになってきた」
――選手の動きを見るとは?
「大会に出場できないとき、いろいろな選手の試合を見る機会が多かった。ネットを挟まず、少し離れて選手たちを見ることで、体の使い方などそれまで見ていなかった点がすっと入ってくるようになった。自分もまねして、さらにオリジナリティーを加えればよくなるのではないかと思えるようになった」
■向こう側に行っちゃったような…
――世界選手権の決勝はライバルのプサルラ・シンドゥ(インド)と1時間50分もの死闘になった。途中からはゾーンに入った状態だったそうだが。
「ゾーンに入るという、よく言われているものがどういうことか、自分でもはっきりわからない。でも自分の中では向こう側に行っちゃったような感覚、ひと山、ふた山、み山越えて先にいるような感覚だった」
――体が自然に動いたのか。
「相手が何をしてくるというよりも、自分が次にどうすべきなのかがわかった。普段はいろいろな選択肢があって、試しながらやっている。でもあのときは自分の中で迷いがなく、次はこうしようと素早く切り替えて判断できた」
――試合中にそういう感覚になることはあるのか。
「よい状態、よく集中しているときは全く迷いはない。(16年3月に)全英オープンで優勝したときや、(15年12月に)スーパーシリーズファイナルを制したときも同じ感覚だった。自分をその状況に持っていけばたぶん負けないということがわかったので、これからいろいろな大会でトライしていきたい」
――決勝第2ゲームの20-21の場面。73回という壮絶なラリーの末、ゲームを落とした。それでも気持ちが切れなかったのは自信になったか。
「もちろん、自信になった。実は第2ゲームはそのラリー以外は全然覚えていない。(ゲームを)取られて、ぱっと時間を見たら1時間を超えていた。お互い最後まで走りきれるのか、ファイナルゲームが果たしてどういうゲームになるのか全く想像ができなかった。それでも監督やコーチが『はい、行くよ』と励ましてくれた。途中苦しすぎて泣きそうになっていたが、何とか我慢していた」
――体のゆがみを直してから、(東京五輪までの)残り3年で体をつくると以前話していた。新たにけがをしたことで計画が変わる部分はあるか。
「全く変わらない。むしろ、まだまだ見えていないところがあると気付いてほしくて、与えられた試練なのかなと思っている。今も毎日発見がある。自分の体の声と相談して戦っていきたい。目先の結果にとらわれすぎず、しっかり土台をつくる。体づくりが大事。それを競技につなげていきたい」
――どんな体が必要だと思うか。
「戦いきれる体。それにプラスして、ただ戦うのではなくて、質の高い戦い、ハイレベルな戦いに耐えられる強さ。世界選手権では(厳しい戦いを)まだ持続できる体ではなかった」
――オフシーズンのない競技で、故障と隣り合わせ。休養も時には必要になるのでは?
「そうだと思う。試合の合間の休養や、試合中の自分のコンディショニングが大事。体のケアだけでなく、摂取する栄養面も。そういうものを含めて知ってコントロールできるようにならないといけない」
■すごく充実した1年だった
――この1年の経験は、今後の競技人生においてどういうものになると思うか。
「リオ五輪に向けた4年間も、最初の2年間がけがで苦しみ、五輪にいけるのかもわからない状況まで追い込まれていた。手術をして、いつそのトンネルを抜けられるかわからない状況だった。そう考えると、この1年はけがで始まって、今もまたけがをしているが、症状は軽い。当時とは追い込まれ方が違う。悪くないスタートだし、(東京五輪に向けた)最初の年に世界選手権で優勝できたことはすごく自信になる。終わってまたけがをして、試合に出場できない日々が続いて、自分がまだまだ体がつくれていないこともわかった。いろいろなことから学べた、すごく充実した1年だったと改めて思う(9月のジャパン・オープンで右膝を痛め、以後全ての試合を棄権・欠場した)」
――アスリートとして脂がのったちょうどいいとき(25歳)に東京五輪が開催される。
「持っているなと思う。照準はまだまだ合ってないが、長い、遠い目標としてもちろん持っている。今やるべきことを判断して積み重ねていきたい。その先に東京五輪があると思う」
――18年はどんな年にしたいか。今後の目標は?
「五輪までの4年間のプランがあって、後半の2年間は世界中の選手がみんなピークにもってくる。そのためにも(18年までの)前半の2年でいろいろ試していく。自分は波があるのでそこを埋めないといけない。五輪代表の選考レース(19年春開始)までに、体をコントロールしながら結果をコンスタントに出して戦い続けたい。みんながピークを持ってくる(東京)五輪前に世界ランキング1位で臨めたらベスト。どの選手よりも勝つ勝率が高くなる。それが自分が描く究極の目標です」
(聞き手は堀部遥)