どこで活動してもミッションは変わらない
SVホルン 前CEO神田康範
仕事をしていて楽しかったのは2015~16年シーズンの1年目でした。目標である3部から2部への昇格を優勝で果たし、毎日が充実していました。負けると眠れないほど一つひとつの試合に入り込み、フロントも選手も優勝、昇格という目標に向かって一つになっていた気がします。試合会場で「日本食フェア」とか「日本の祭」を紹介するようなプロモーションを思いついては仕掛け、プロ野球の阪神タイガースのまねをして、ホルンのチームカラーである青いゴム風船を飛ばすようなこともしました。
そういう仕掛けのすべてがうまくいったわけではありません。むしろ空回りした面もありましたが、そういうマイナス面もチームの好成績が覆い隠してくれたように思います。
しかし、2部で戦った16~17年シーズンはチームの順位が低迷したこともあり、苦しいことが絶えない1年になりました。成績が悪いと客足も減り、それで選手もやる気を失うという悪循環にはまりました。連敗が増え、下位に低迷するとモチベーションもどんどん落ちていきました。
■突然のライセンス発給停止問題
それでも中盤以降は立ち直り、上位チームを倒したり、引き分けたりして徐々に順位を上げることができました。上半分くらいの順位に入れるんじゃないかと思った終盤戦で突然、降って湧いたのが、ホルンに対するライセンス発給停止問題でした。仮にSVホルンが2部で優勝しても1部には上がれない、2部にとどまれるかどうかもわからない、それはSVホルンがリーグの定めた基準を満たしていないからだ、というリーグ当局からのクレームでした。これで監督も選手もフロントも一気に試合に集中できなくなりました。
不思議なことに、一時期報道もされた、来季のクラブライセンスをSVホルンに発給しないという事態も、われわれホンダ・エスティーロ(本田のマネジメント事務所)側が一歩引いた形の来季の経営計画を提出し直したら、あっさり受理されてライセンスも発給されました。昨季の最終戦に勝っていたらSVホルンは2部に残留できたのですが、結果として実力不足で3部に落ち、ライセンス発給の意味はなくなりました。ただし、この件で選手たちを責める気にはなりません。「来季のライセンスがおりない」という報道がなされた後の選手はすっかり動揺してしまい、最後の数試合は本当に目も当てられない状況だったからです。
自分に対する反省点としては、CEO就任1年目に、それまでクラブの実権を握っていた人たちとの"戦い"にエネルギーを注ぎ込みすぎたことがあります。そういう人の中には当初、われわれの参入を歓迎し、SVホルンのスポンサーとしてバックアップする姿勢を見せてくれた人もいました。しかし、チームの成績がよくなって2部昇格の実現性が高くなり、オーストリアの国内年間ニューストップ100に入ると、クラブにもっと深く関わろうとする人が出てきたのです。クラブ経営に口を出せるポジションを求めるようになり、CEOの私と激しく対立するようになりました。そういう埋めがたい溝を地元の人との間につくってしまったのは確かです。
前にも書きましたが、私が来るまでのSVホルンはスタンドにVIPルームがあっても有名無実でした。選手の身内とか、VIP会員の友人のそのまた友人とか、誰でも彼でも入ってきていました。そういう「なあなあ」の状態はやめて、年間契約料の対価としてVIPルームを提供するようビジネスモデルを設計し直したら、とてつもない反発を食らうことになりました。
今から思うと、彼らの言い分もわかります。チケットの販売もグッズの販売もスタジアムの運営に携わる人はすべて地元のボランティアです。そんな小さな町のクラブにいきなりドライな経営を持ち込まれたら感情的にもなりますよね。そういうわれわれのやり方を嫌って違うチームのボランティアになる者もいたし、それでもSVホルンが好きだと言って残ってくれたボランティアもいました。
自分としては試合をするたびに赤字を垂れ流すような状況では困るし、黒字経営は環境的に不可能だとしても、少しでも利益が上がる方法、少しでも経費を削れる方法を考え出すのに必死だったのです。3部から2部に上がると当然経費はかかります。2部昇格でテレビ放送権料は確かに増えましたが、驚くほどの額ではない。むしろ、2部になるとリーグ当局からの「ナイトゲームのためのもっと明るい照明が必要だ」とか「雨にぬれないシートをどれだけ確保できているのか」といった注文がどっと増え、放送局側の要望でピッチの位置をずらすことまでしました。
■クラブ経営、温度差を痛感
1軍、2軍用にピッチも6面整備しました。そういう2部仕様に適合するインフラへの投資が自分の仕事の最後の置き土産だったのかもしれません。
CEOといっても1、2年目は、地元の銀行マンの方が"共同会長"のような形で存在しました。われわれが3年前に出資を決めたときからSVホルンの会長職にあった人で、その人とは良好な人間関係を築いてきたと思っています。今年は、その会長が経営の先頭に立ち、われわれも彼の決定をあおいでいく形になりました。
今にしても思えばですが、今年くらいの余裕ある心持ちで最初からスタートしておけばよかったかなと後悔する気持ちがないではありません。われわれが持ち込んだ資金は現地の人たちをスポイルしたというか、クラブの財政やチーム強化がどうなろうが、「最終的には日本から来た連中が何とかするだろう」という雰囲気をつくったように思うのです。この2年間、われわれなりに精いっぱい頑張ったつもりですが、現地サイドの危機感は薄く、温度差を痛感することが多々ありました。
3部に落ちて提供する資金を減らし、それに合わせてわれわれが口出しを減らすと、今は現地サイドの人間にやる気が戻ってきました。この姿勢を最初から引き出せればよかった、そうすれば互いの力をもっと出し切れたような気もします。最初からお金の管理だけしっかりやって、運営はある程度現地の人間に任せた方がよかったのかな……。
それでも、率直に言って、いまだに何が正解なのかは私にはわかりません。
SVホルンを支援してくれているスポンサー企業や、われわれのプロジェクトに共鳴し集まってくれた選手のことを思うと、3部に降格したのは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。選手人件費削減に合わせ、有力選手ほど放出しなければならなくなりました。
ここから先については、今シーズンがいろいろなことを判断する1年になると思っています。昨季2部で最下位に終わったSVホルンは現在3部で戦っていますが、経営破綻するクラブが2部にざらにあるオーストリアリーグの経営環境は3部のクラブにはさらに厳しいのが実情です。経営を任された地元サイドから自立に向けた動きが活発に出て、われわれの持ち出しに頼るだけの構造から脱皮できたら、われわれも身の丈に合った投資を続けることになるかもしれません。この1年、どういう判断をすることが最善なのか、時間をかけて見定めたいと思っています。
■2年間の教訓、今後に生かす
われわれが思い描くピラミッド型の選手育成システムに変わりはありません。小学生のスクールをベースにジュニアユース(中学生年代)、ユース(高校生年代)のチームを持ち、ピラミッドの頂点には日本やアジアと欧州の懸け橋になるクラブを持つ。これまではその頂点にSVホルンをイメージしてきたわけですが、今後の海外進出にはこの2年間の教訓をしっかり生かしたいと思っています。
実際、全体的な世界戦略の見直しの中で、新たな胎動があります。我々は既にカンボジアでクラブ経営に参画し「ソルティーロ・アンコールFC」として軌道に乗せました。今季の2部から来季は1部で戦えそうです。さらに、アフリカのウガンダの首都カンパラ市にある「ブライト・スターズFC」(同国プレミアリーグ1部所属)を買収し経営することも9月11日に正式発表しました。
ほとんどの日本人にとってウガンダは、なじみのない国だと思います。私も6月末に本田に同行して訪ねたのが初めてのウガンダ行きでした。驚いたのは結構、日系企業が進出していて、街中には日本の中古車があふれていたことです。乗り合いタクシーとしてハイエースが大活躍し、公共の交通機関として人々の貴重な足になっていました。
アフリカのサッカーといえば、モロッコやアルジェリアなど地中海に面した国々やガーナ、ナイジェリアなど西アフリカに強国が多い。それに比べて東側のウガンダのサッカーはいまひとつ。エチオピアやケニアも陸上の長距離ほどサッカーは強くない。そういう事情をリサーチしながら選手育成である意味、成熟している西アフリカよりも、東側の方が未知の部分がある、まだまだ手つかずの面があって費用負担も軽く、そのポテンシャルに懸けてみようという気になったのです。
一筋縄でいかないのは織り込み済みです。ウガンダでは日本大使館や国際協力機構(JICA)、日系企業の関係者にお世話になりました。ウガンダサッカー協会の会長とも本田は面談しました。しかし、予定に組み込んだスケジュールの半分はその日になってキャンセルされました。日本みたいに物事は運ばないと早速思い知らされたわけです。
こちらではクラブの共同経営を考えています。経営の主導権を握りすぎると地元の反発を招いてしまう教訓をホルンで学んだからです。今度はオーナーとうまく連携しながら、選手育成やチーム強化の部分で責任を大きく持ってやりたいと思っています。
ウガンダには、まさに「原石」と呼べる選手がごろごろいました。そんな選手を5年、10年かけてプロの選手に磨き上げる。勝負できるレベルに達したらSVホルンのようなクラブを経由して、さらに大きなクラブに送り込む。この人材供給のプランは欧州にハブとなるクラブがないと難しいのかもしれません。
我々はグループとして引き続き、夢や目標を持つこと自体が難しい環境に置かれている地域の子供たちに、夢を具体的な目標に置き換えて努力を重ねることの大事さを伝えていきたいと思っています。どこで活動してもそのミッションだけは変えない。そのことを約束してこの連載を終えたいと思います。