もっと関西 コース内側の全面なぜ池? 湿地帯の名残 淀の競馬彩る(とことんサーチ)
宇治川通じ琵琶湖と縁 貝が歴史示す
春の天皇賞や菊花賞などの大レースが行われる日本中央競馬会(JRA)の京都競馬場(京都市伏見区)。日本有数の規模を誇る競馬場だが、ほかにはみられない珍しい特徴がある。コースの内側全面に池が広がっているのだ。なぜ池があるのか――。
緑の芝に日差しを反射する水面(みなも)。風情の漂う池は京都競馬場の名物である。小倉競馬場(北九州市)などもコース内の一部に池はあるが、全面が池となっているのは国内でもここだけ。広さは6ヘクタールと、甲子園球場の1.5倍にもおよぶ。果たしてこの池の正体は何なのか。
京都競馬場の開設は大正期の1925年。京都府須知町(現京丹波町)の競馬場が大都市に近い現在地に移ってできた。建設時に京阪電気鉄道などから借り受けた土地に池があったようで、明治末期の地図を見るといまの競馬場の位置に池があるのがわかる。
この池がなんらかの理由で残ったのだろう。京都競馬場に聞くと「古すぎて工事の詳しい内容はわからない。だが、湿地帯で排水などの工事が非常に難航したようだ。コスト面も含め、埋め立ても難しかったと推測される」という。
意図的に池を残した可能性を問うと「競馬を開催するにあたってデッドスペースはない方がいい。最初から池のある競馬場を計画したとは思えない」。実際、池のない競馬場は馬場内もファンに開放するなど有効活用するケースが多い。馬場の維持管理で向こう正面に行くのにも正面から突っ切っては行けず、池をぐるっと回る必要があり不便。やはり池をなくせなかったと考えるのが妥当なようだ。
では、そもそもこの池はなぜできたのか。「競馬場の隣を流れる宇治川と関係がある」と語るのは宇治市歴史資料館の主任、坂本博司さんだ。競馬場の建つあたりは京都盆地で最も標高が低く、水が集まる土地。この地域には琵琶湖から流れ出る宇治川のほかに木津川、桂川も流れ込む。3つの川は競馬場の5キロほど下流で合流し、淀川になる。
ただ、これだけ水が集まると川に流れきらない水も出てくる。その水が低い場所に滞留。一帯は、かつて競馬場のすぐ東にあった巨椋(おぐら)池を中心とした低湿地帯となっていた。
巨椋池は周囲16キロメートル、広さは約800ヘクタールにもおよぶ京都盆地最大の湖沼だった。河川の増水時に上流から流れてきた水を一時的にため込み、下流の洪水を防ぐ「遊水池」の役割があったが、大きな巨椋池でも水を受け止めきれず、周囲にも数々の池ができた。「そのひとつが競馬場の池」と坂本さん。あふれた宇治川の水がたまった池で、一大湖沼地帯の池のひとつだった。
ただ巨椋池が水をため込み、水かさが増すと周辺はしばしば水害に悩まされた。治水に加え、食糧増産の狙いもあり、巨椋池は41年に干拓。他の池や沼も干拓などでほぼ姿を消した。競馬場の池は貴重な生き残りで「巨椋池の唯一の名残」とする書物もある。
京都競馬場の池に生息する生物からも、宇治川や巨椋池との関わりがわかるという。99年に京都府が競馬場の池を調査。琵琶湖でしかみられないメンカラスガイという貝が見つかった。以前は宇治川などにもいたが、いまはいなくなった。その貝が競馬場の池で生き延びていたのである。
巨椋池を中心とした湿地帯では増水で池同士や川がつながったり、水が引いて切り離されたりを繰り返した。生物もその水に乗って移動したと考えられる。
「だからメンカラスガイが競馬場の池で見つかったのでは」と当時の調査に関わった滋賀県立琵琶湖博物館の専門学芸員、中井克樹さん。「他の場所では失われてしまったメンカラスガイが、閉鎖された競馬場の池という極めて特殊な環境で絶えることなく生き残った。これはすごいこと」と話す。一大湖沼地帯の名残としてだけでなく、生物にとっても貴重な池のようだ。
(大阪・運動担当関根慶太郎)