いつも我々の一歩前に 女子サッカー・本田美登里(中)
長野パルセイロ・レディース監督
「いつも私たちの一歩前を歩いてくれた。道筋をつけてくれた」。常葉大付属橘高校女子サッカー部監督の半田悦子にとって、1学年上の本田美登里(52)はそんな存在だ。
同じ静岡県出身。小学生時代は本田の家で遊び、一緒にサッカークラブへ行って遊んで帰る。中学・高校でも日本選手権7連覇を果たす清水第八で共に戦い、1981年に結成された女子日本代表で共に1期生となり、最初の女子世界選手権(現ワールドカップ、W杯)へと挑む。
半田はウイング、本田はDF。世界へ出たての女子代表はまだ弱く、暴風のような猛攻を浴びた。「すごく体を張ってるな……」。本田が必死に体を投げ出し失点を食い止めるのを、半田は前線で眺めるしかなかった。
シュートの嵐も激しい接触プレーも、本田は怖がらなかった。「ケガをしても痛いというそぶりも見せない」。引退後、女子のS級ライセンス取得者第1号である本田の後を追って取得に挑めば、「男子に交じって道を開いた本田さんはもっと大変だったはず」としのばれた。半田にとって本田は常に「強い人」だ。
本田や半田、現日本代表監督の高倉麻子ら初期の代表メンバーは共に過ごした時間も長い。女子サッカーをメジャーにする希望が、かすかに目の前に開けた夜明けの時代。「絶対に先へ行く、このチャンスは逃せない」という切迫感や強い気持ちが、「なでしこ」に行き渡るメンタリティーだったと半田は振り返る。
時代は変わった。日本は2011年にW杯を優勝し、世界一を夢でなく現実としてとらえる世代が生まれた。エリートはスパイクや練習場にも恵まれる。本田は12年に20歳以下(U-20)代表コーチを務めたが、宿泊先は東京の超高級ホテル。本田にはビックリの待遇にも、後輩は驚かない。
■「感謝」体現できる選手育てたい
「(環境が)当たり前になったことを感謝の言葉やプレーに変換できる選手を育てなければいけないのに、果たせてきたか」。問いは導く側へ回った自身へも向かう。「あらゆる面で『ぬるく』なったのかも」。ハングリー精神の薄れた今、違う形の原動力を植え付ける難しさも感じる。
同世代の高倉率いる代表を、長野から手助けしたい。高倉が選びたくなる選手を輩出し続けたい。高倉の理想は理解しているけれど、「違う意味のサッカー知能を備えた選手も送り出したい。ピッチに立つのは高倉本人ではないのだから」。高倉に頼らず、自分で判断し、苦境なら自然と集結して声をかけ、自分たちで打開する。本田や高倉の世代はそうしてきた。
長野の得点源の横山は欧州へ移籍する。痛恨の戦力ダウン、にも本田は泰然としたものだ。「また探して、育てればいいんです」。ないなら、作る。そうやって切り開いてきた。「前向きなエネルギーの強さ。足踏みなどしていたら、2度もチームを1部に昇格させることなどできない」。半田は今も頭が下がるばかりだ。(敬称略)
〔日本経済新聞夕刊5月30日掲載〕