謀反直後の光秀書状原本 室町幕府再興説裏付けか
戦国時代の武将、明智光秀が、本能寺の変の後に反織田信長勢力の豪族に送った書状の原本を発見したと三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、発表した。信長に京都から追われた室町幕府の将軍を再度、京都入りさせようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授らは「本能寺の変は幕府再興が目的との説を裏付けるものだ」としている。
本能寺の変は1582年6月2日、信長の家臣だった光秀が謀反を起こし、京都・本能寺で信長らを自害に追い込んだとされる。動機は、信長に対する怨恨説や天下を取って代わろうとした野望説、光秀は実行犯で何者かに操られた黒幕説など諸説がある。
これまで書状の写しが東京大学史料編纂所にあるのは知られており、藤田教授は幕府再興説を唱えていたが、原本は見つかっていなかった。
書状は縦11.5センチ、横56.7センチ。1582年6月12日付で、紀伊雑賀(現和歌山市)を治めていた豪族、土橋重治に宛てたもの。写しと同じ内容が記され、室町幕府の15代将軍、足利義昭が京都入りする際には「将軍の命に従い協力することが大切です」とあった。
義昭への協力や光秀への援軍を申し出た重治に対し、感謝していることもつづられていた。
光秀は信長より以前、義昭に仕えた時期があった。本能寺の変直前に、自身と親交の深い四国の長宗我部元親を信長が攻めようとしていたことなども影響し、義昭側についたとみられる。
岐阜県美濃加茂市の男性が2015年、古書店で書状を購入し美濃加茂市民ミュージアムに寄贈。同ミュージアムの依頼を受けた藤田教授らが今年5月から調査し、花押や筆跡が一致したため光秀の書状と判断した。〔共同〕