もっと関西 恩師の教え胸に後援探し 関西フィル首席指揮者 藤岡幸夫さん(私のかんさい)
小さな公演で文化広げる
■藤岡幸夫さん(55)関西フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になってから18年間、関西でクラシック音楽の裾野を広げてきた。物心ついた頃には指揮者になると決めていた。
小学校4年生だった私はイタリア人のトスカニーニが指揮する『椿姫』というオペラ曲を聴いて衝撃を覚えた。同じ曲でも指揮者が変わると別物になる。「指揮者になりたい」と思ったきっかけだ。高校生でプロに師事するなど指揮の勉強を重ねたが、周りからは評価してもらえなかった。
転機は両親から「音楽大学で学ぶ条件」と課された一般の大学に進んだ3年生の時だ。ダメだったら指揮者を諦めようと会いに行ったのが渡辺暁雄先生。聴音やピアノ演奏を見て、幸い「君は絶対に指揮者になるべきだ」と言ってくれた。
テスト翌日から渡辺先生に弟子入りした。人としても成長できる日々の始まりでもあった。かばん持ちもした私は、先生が持つ幅広い人脈を目の当たりにしてきた。日本フィルハーモニー交響楽団の創立に関わった先生は、指揮者でありながら経済人と会ったり、自宅でも多くの人に電話をかけたりしていた。当時からオーケストラの運営は楽ではなかった。舞台で結果を残すだけでなく、楽団に責任を持つ姿に憧れ、私がめざす指揮者像にもなった。
■ダイキン工業、サントリーホールディングス、阪急電鉄――。関西フィルは地元の代表企業が支えている。だが就任時の経営状態は苦しかった。
関西フィルを初めて指揮したのは客演として招かれた1998年。それがきっかけで2000年に正指揮者に就任した。東京の楽団と違い団員の7~8割は関西出身で一体感があり、ラテン系な演奏をしていた。
関西は文化で東京を超えていた。宝塚歌劇団は兵庫と東京の劇場があり、音楽学校や座付きオーケストラがそろう。チケットも完売だ。日本初のコンサートホールも大阪のザ・シンフォニーホール。大阪は料理もおいしく、ヨーロッパ的。北新地でタクシーの4重駐車を見て「こんなことやっちゃうんだ」と驚いた。
だが就任して厳しい財政状況を初めて知った。思い出したのは恩師の姿。渡辺先生が運営に奔走するように、音楽以外の人脈にもお世話になってスポンサー集めにも取り組んだ。18年間、多いシーズンには年50回も公演をする指揮者と楽団は日本で珍しい。いつしか関西フィルとの演奏が私のライフワークとなった。
■関西の自治体などからの演奏依頼も多い。オーケストラが演奏することで、ホールなどの施設が音響空間としての質を高めようとする動きもある。
「規模が小さい公演ほど私が出演しなければ意味がない」と思っている。私が自治体に持ちかけたことがきっかけで、13年から大阪府東大阪市で市民コンサートを毎年開いている。はじめは「需要があるのか」という声もあったけれど、毎年ほぼ満席。公演を続けていたら、老朽化していたホールも建て替えて19年に新設することになった。03年から公演している滋賀県長浜市のホールでも、以前「反響板がない」と言ったら翌年にはついていた。
僕自身は関西出身ではないが、10年前に亡くなった母が大阪府池田市の出身だ。晩年、「ふるさと納税というのがあるけれど、私は息子を関西に納めました」と言うのが口癖だった。僕の心も関西とともにある。関西フィルに骨を埋める覚悟でいる。
(大阪経済部 大沢薫)