黎明期のダム 今も潤す 布引五本松堰堤(時の回廊)
神戸市
浄化処理した安全な飲み水を市民に届ける近代水道が港町・神戸で開始されたのは1900年(明治33年)。国内では7番目だった。水源を確保するため神戸市が六甲山中に建設したのが国内初の重量式粗石コンクリートダム「布引五本松堰堤(えんてい)」(布引ダム)だ。1世紀を経た今もなみなみと水をたたえる。
西欧古城の趣
布引ダムは伊勢物語などにも登場する名瀑(ばく)、布引の滝の上流にある。堤の幅は約110メートル、高さは約33メートル。全面に角錐(かくすい)状の石を張り、「歯飾り」と呼ばれる装飾を施した頂上部に向かって徐々に反りあがる。威風堂々とした姿は西欧の古城のような趣がある。
神戸は1867年の開港を機に国際港都として歩み始めた。人口が急増したにもかかわらず衛生面で劣る井戸水に頼ったため、コレラの流行で多くの死者を出した。こうした事態は横浜で始まった近代水道の敷設機運を高め、市議会で内務省のお抱え英国人技師による計画が可決された。
日清戦争もあり、工事の着工は1897年にずれ込んだ。この間も神戸は発展を続け、当初想定した25万人分の給水能力では不十分となった。原案では高さ約20メートルの土堰堤を作る計画だったが、より多くの水を蓄えられるダムを造るため、日本人技師によってコンクリート製に変更された。
とはいえセメントは国内で製造が始まったばかりで高価な資材。意匠性の高い石を型枠として使い、堤の内部には砕石などを詰めてセメントの使用量を節約し、同時に堤の体積と重量を増す工夫が講じられた。
馬場俊介・岡山大名誉教授(土木遺産論)は「5メートル大の岩を砕かずに内部に入れるなどダム建設の先端を行く米国流の大胆な工法を用いている。当時はセメントの黎明(れいめい)期で巨大構造物に大量に使うことを躊躇(ちゅうちょ)したのかもしれない」と指摘。一方で「自然の地形を生かして(余分な水を流す)余水吐(よすいばき)を設けるなど欧米で実践されていた『自然との調和』の思想が採り入れられ、時代性がうかがえる」と評価する。
軟らかな渓流水
ダムに注ぐ渓流水は国内の水でも軟らかい硬度20~30。上流に設けられた分水施設を通って不純物が少ない水だけがたまる。このため、まろやかさばかりでなく「赤道を越えても腐らない水」と寄港する外国船にも好評だった。市水道局計画調整課の田中孝昌課長は「港まで専用の配水管が敷かれ、往時には1日1千立方メートルを給水したようです」と話す。
もっとも今では、人口減少などの影響で給水需要は減っている。市は琵琶湖の水なども購入しているため、布引ダムからの取水は年1~2カ月と短く、非常用水源の位置づけだ。それでも「布引は今も神戸の誇るべきブランドのひとつ」(田中課長)であり、水を地ビール開発に用いるなど、地域の誇りや愛着の醸成に生かす。時代とともに役割は変われども、布引ダムは港町を支え続けている。
文 大阪社会部 入江学
写真 三村幸作