日本赤軍ジャカルタ事件、城崎被告に懲役12年 東京地裁判決
1986年にインドネシアの日本大使館が襲撃された「ジャカルタ事件」で殺人未遂などの罪に問われた日本赤軍メンバー、城崎勉被告(68)の裁判員裁判の判決公判が24日、東京地裁で開かれた。辻川靖夫裁判長は「組織的犯行のために重要な役割を果たし、反省の態度も見られない」として懲役12年(求刑同15年)を言い渡した。被告は無罪を主張していた。
過激派による国際テロ事件が裁判員裁判で審理されたのは初めて。弁護側は判決を不服として即日控訴した。
判決によると、城崎被告は86年5月、偽造パスポートの氏名でジャカルタのホテルに滞在。何者かと共謀し、時限式発射装置を使ってホテル一室から日本大使館に向けて金属弾を撃ち込んだとされる。金属弾は不発で、けが人はいなかった。
辻川裁判長は判決理由で「無差別に多くの命に危険を及ぼす極めて悪質な犯行だ」と指摘。被告が実行犯かどうかの証拠がないとしながらも、「犯行の計画を知って、発射に適したホテル一室を確保する重要な役割を果たした」と述べた。
城崎被告は「事件当時はレバノンにいた」「ホテルで見つかった指紋は捜査機関がでっち上げた」と主張したが、判決は「被告がレバノンにいた証拠は一切示されていない。捜査機関が指紋のすり替えや転写をするとは考えがたい」といずれの主張も退けた。
城崎被告は別の事件で服役中だった77年、日本赤軍が日航機を乗っ取ったダッカ事件で政府による「超法規的措置」で人質と引き換えに釈放され出国した。その後、日本赤軍メンバーと合流し、ジャカルタ事件に関与したとされる。
96年に米当局がネパールで城崎被告の身柄を拘束し、日本大使館の襲撃と同時に起きたジャカルタの米大使館襲撃事件で禁錮30年が確定。昨年1月に刑期の短縮で釈放され、強制送還後に警視庁公安部が逮捕した。
▼日本赤軍と国際テロ 海外に共産主義革命の拠点をつくるという目的のもとで、1971年に共産主義同盟赤軍派の幹部だった重信房子受刑者らがレバノンに出国し、日本赤軍を結成。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携した。72年に旅行客24人が死亡したイスラエル・テルアビブの空港乱射事件をはじめ、多数の国際テロを起こした。
ジャカルタ事件は、86年5月の東京サミット直後に発生。インドネシアの日米両大使館に向けて金属弾が撃ち込まれた。