最後に涙…「笑顔で前に」 浅田真央さん一問一答
フィギュアスケート女子の五輪銀メダリスト、浅田真央さん(26)は12日午前、東京都内のホテルで記者会見を開き、引退を発表した。会見を終える直前、あふれ出しそうな涙をこらえ、「笑顔で新たな人生を見つけて前に進んでいきたいと思っています」と語った。引退会見の主な発言は以下の通り。
「2日前にホームページでお知らせしましたが、浅田真央は選手生活を終えることを決めました。長い選手生活、たくさん山がありました。乗り越えられたのは支えてくれたファンのおかげです。今日は感謝の気持ちを皆さんにお伝えできればと思います」
――今の心境は。
「この場に立って、これだけのたくさんの方がいらしてくれてびっくりした。今の気持ちは落ち着いている」
――引退を決めた際に印象に残った周囲の言葉は。
「皆さん『お疲れさま』と言葉をかけてくれた。私も『選手生活を終えるんだな』という気持ちになった。今はすごく晴れやかな気持ち」
――引退の理由は。
「(2015年10月に)復帰してからいい形でスタートできたが、そこから練習するにつれて、試合に出るにつれて、復帰前よりつらいことが多くなった。今のスケート界はすごいので、私自身『ついていけるのかな』という思いが強くなった。気持ちや体の部分も復帰前よりつらかった」
「復帰したシーズンは乗り切れたけど、2シーズン目は『なんとか頑張ろう』という思いだけでやってきた。でも最後(昨年12月)の全日本選手権で『もういいんじゃないかな』と思った。(18年の)平昌五輪に出る目標があったので、やりとげなきゃと思っていた。自分が言ったことは今までやり通してきたので葛藤はあった」
――最終的に引退を決断したのは。
「全日本選手権が終わって(12位という)結果が出たとき、『終わったんだな』って。でも(平昌五輪まで)『やらなきゃいけないんじゃないかな』と思ってここまで(引退が)延びてしまった」
――現役生活で一番楽しかったことは。
「フィギュアスケートには技がたくさんあるんだけど、一つずつできるのが楽しかった」
――つらかったことは。
「ない。自分がやりたいことをやってきた道。つらいことはなかった」
――(10年の)バンクーバー五輪の思い出はあるか。
「バンクーバー五輪の時は19歳。すごく若くて本当に気が強くて、強い気持ちだけで乗り切った気がする」
――(14年の)ソチ五輪では日本中に感動を与えた。振り返った感想は。
「ソチ五輪はショートが残念な結果だった。すごくつらい気持ちだったが、フリーを最高の演技で終えることができた。バンクーバーからソチまでの4年間の気持ちを出し切った」
――印象に残る試合は。
「ソチ五輪後の世界選手権。スケート人生の全てをぶつけた」
――最も印象的な演技は。
「一つは難しいけど、やっぱりソチ五輪のフリーかなと思う。あれだけの挽回の演技が五輪でできたことが大きかった」
――2人のコーチに指導を受けてきた。
「山田満知子先生は小さいころに指導を受け、スケートの楽しさや挑戦する楽しさを教えてもらった。その一方でスケートだけでなく、いろいろなことを教えていただいた先生。佐藤信夫コーチは大人になってから指導を受けるようになり、自分の意思もすごく強いので先生といろいろな話し合いの機会も多かったけど、それを静かに見守ってくれていた先生だった」
――15年に復帰してからの2年間の意味は。
「ソチ五輪シーズンの世界選手権で引退していたら、今も『まだできたんじゃないかな』と思っていたと思う。でも自分が望んでチャレンジして出した結果なので今はやり残したことはない。『チャレンジできて良かった』と思っている」
――フィギュアスケートに今後どう関わるか。
「5歳でフィギュアスケートを始めてずっとお世話になってきた。どんな形であってもフィギュアスケートに恩返しできるように頑張っていきたい」
――日本フィギュア界に送るエールは。
「引退された大先輩をはじめ、(私も)これまで本当にスケート界を引っ張ってこれたかなと思う。これからは若い選手がどんどん出てきているので、若いパワーでフィギュアスケート界を引っ張っていってほしい」
――自身にとってフィギュアスケートはどんな存在か。
「どんな存在かな。難しい。一言でいうと人生かなと思う」
――自分を褒めたいところは。
「私ははまってしまったらすごくはまるんだけど、すぐに飽きちゃう性格。でもスケートは5歳から続けてきた。『長い間すごいね、続けてこられたね』と言いたい」
――どんなスケート人生だったか。
「私の全てがスケートなので、本当に人生」
――ファンには何と声をかけたいか。
「たくさんのファンの方が長い間、良いときも悪いときも応援してくれた。私の励みやパワーになった。本当に感謝している。ありがとうございました」
――演技で「ノーミス」にこだわり続けた意図は。
「みんな試合に向けて練習しているからミスをしたくないと思うけど、私は試合に強いタイプではないのであえて言っていたと思う」
――代名詞のトリプルアクセルへの思いは。
「伊藤みどりさんのようなトリプルアクセルを跳びたいと思ってその夢を追ってやってきた。跳べたときはうれしかったし自分の強さでもあったが、反面、悩まされることも多かった」
――ここまで競技生活を続けてきた支えは。
「一つは自分の目標。あとは、やっぱりたくさんの方に支えられて、たくさんの方の応援があったからだと思う」
――世界選手権で日本女子が取った平昌五輪の枠は2つ。前回の3から減った。
「平昌五輪に出る目標があって『それをやめて引退する自分を許せるのかな』と迷っていた。最後に話し合いをして決めたのが2月。(3~4月開催の)世界選手権は関係ない。(枠が減るのは)残念だけど、たくさんの選手がハイレベルな試合を見せてくれると思う」
――2月から2カ月の思いは。誰が一番決断の後押しをしたのか。
「色々と気持ちの準備があって、今日に至った。家族だったり、友達だったり知っている方に相談した。皆さんアドバイスをくれたけれど、最終的に決めたのは自分。中でも旅行に行ったり、今まで行けなかったところに行ったりして決断した」
――一番印象的な言葉や大事にしている言葉は。
「感謝という言葉は忘れずにいたいです」
――ソチ五輪でのフリー演技はどのように立ち直ったのか。
「ショートが終わったときは、本当に『ああ、日本に帰れない』と思ってつらかった。フリー当日の朝も気持ちが切り替わっていなくて、『このままで大丈夫かな』という思いで練習を終えた」
「でも、試合が近づいてメークをしてウオーミングアップをして、リンクのドアを開けた瞬間の会場の雰囲気を感じて、『ああ、これはやるしかない』と思った」
――フリー演技を終えた時の気持ちは。
「最後のポーズは上を向いていたが、『終わった、良かった』と思って涙が出てきた。バンクーバー五輪の時も泣いていたので『泣いてちゃ駄目だな』って笑顔になった」
――信念は。
「小さい頃から変わらないんだけど、1日1日何か『これがしたい』という目標を持ってやってきた。目標を達成するという強い思いを持ってやってきたつもり」
―キム・ヨナ選手への思いは。
「私たちは15、16歳くらいの時から一緒に試合に出ていた。お互い、いい刺激を与え、もらいながらスケート界を盛り上げられたと思う」
――最後の全日本選手権への思いは。
「最高の演技ではなかったが、得点が出て『これでいいのかもしれない』と思った」
「12歳から全日本に出場して、一番残念な結果に終わってしまった。結果も決断にあたって大きな出来事だと思う」
――生まれ変わったらまたフィギュアスケーターになるか。
「今こうして26歳までスケーターをやって何も悔いがないので、もしもう一度人生があったらスケートの人生は選ばないと思う」
――スケーターでなければ何をしていたか。
「食べるのが大好きなのでケーキ屋さんとかカフェとか。レストランだったりそういうのをやっていたのかなと思ったりもする」
――「自分が言ったことはやり遂げる」というポリシーは誰から。
「やはり母からかなと思う。もともとこういう性格なので、頑固って言うのかな。普段はそんなことはないんだけど、自分がいったん言ったことには頑固になってしまう」
――ポリシーを貫いた最初の体験は。
「小さい頃に毎年、スケート合宿があって、そこで『絶対トリプルアクセルを跳ぶ』って決めて実際に跳べたのを覚えている」
――それがスケーターとしての原点か。
「自分でいうのも何だけど、そこで目標を達成するのがこんなにうれしいんだと思えた」
――結婚の予定は。
「あはは。結婚の予定ですか。ないです」
――今後、どういうスケートを見せたいか。
「7月にアイスショーがある。今までのスケート人生の全てを注ぎ込むようなプログラムを作っていきたい」
――ファンへ最後のあいさつをお願いします。
「今日は本当にありがとございました。発表からの2日間、温かい言葉を頂いて晴れやかな気持ちで引退を迎えることができました」
「スケート人生で経験したことを忘れずにこれから新たな目標を見つけて、笑顔で前を進んでいきたいと思います」