寺田千代乃(24)審議会委員
中小の視点を率直に 企業の意欲生かす規制緩和訴え
これまでに政府の審議会などの委員を数多く経験してきた。政府税制調査会との関わりは最初、大阪で開かれた地方公聴会での意見陳述人としてだった。1986年2月、税調委員の前で中小企業の経営者として感じていることを率直に述べた。経理実務を長くしてきた経験から、煩雑さをできるだけなくしてほしい、などと訴えたように思う。
その後、なぜか政府税調の委員への就任要請が来た。当時はまだ会社の規模も小さく、時間的な余裕もないのでお断りするつもりだった。しかし、相談した方が皆、是非受けるべきだと言い、背中を押す。やってみようと決めた。
87年に政府税調の委員になった。40歳になった頃である。大きな会議室に入ると、年配の威厳のある方々が並んでいる。日本の将来を見据え、あるべき税制を考える役割を担っていると気負うと肩に力が入るが、私の役割は中小企業経営者の視点で考えたことを率直に言うことだと思い、議論に加わった。
その後委員になった政府の審議会や会議も、他の委員は日本を代表する企業のトップや各界の代表、大御所や気鋭の学者といった方ばかり。その中で緊張しなかったと言うと嘘になるが、気後れはしなかった。自分から手を挙げてなったわけではないという、一種の開き直りの気持ちがあったのかもしれない。
政府税調の会合が終わった後、委員で評論家の大宅映子さんから声をかけられた。「お飾りのかわい子ちゃんだと思っていたら、あなた、なかなか言うわね」。舌鋒(ぜっぽう)鋭い女性の先輩からのお褒めと励ましの言葉と受け取り、その後の会合でも持論を述べた。
96年には総理府の国会等移転審議会の委員になった。移転先候補地の選定までしたが、その後、移転の機運はしぼんでしまった。大災害などのリスクを考えると、東京一極集中是正の必要性はさらに高まっているように感じる。
設置期間は短いが濃密な議論をしたのが、小渕恵三首相の肝煎りで発足した経済戦略会議である。バブル崩壊後の日本経済を立て直す方策を考える役割を担うとされ、マスコミの注目度も高かった。
委員は、経済界から、議長を務めた樋口廣太郎氏のほか、井手正敬、奥田碩、鈴木敏文、森稔の各氏と私の6人。学会からは、中谷巌、伊藤元重、竹中平蔵、竹内佐和子の各氏の4人である。98年8月に初会合を開き、12月に中間報告、翌99年2月に最終報告を小渕首相に提出した。
規制緩和を議論する中で、かねて違和感を覚えていたことを話した。中小企業を、保護すべき弱者とばかり見る傾向が強すぎると感じていたのだ。「チャンスがあれば生かして自分の力でやっていこうという方はたくさんいる。そういう方のための規制緩和を進めるべきだ」と訴えた。
経済戦略会議で心に残ったのは小渕首相の姿勢と意気込みだ。最初あいさつをしてすぐに退席するのかと思ったら、議論をずっと聞いておられた。毎回そうだった。出席できない状況になると、会議の日程が変更された。首相のスケジュールを勘案したためだと思うが、会議は朝か夕方に開かれることが多かった。
私にとっては新幹線での移動が勉強の時間だった。書類や本を読むのに集中している姿を見つけた知人から「いつもやっているのですか」と言われ、何か気恥ずかしかった。
(アートコーポレーション名誉会長)
アートコーポレーション名誉会長の寺田千代乃さんは、引っ越しを専業とする日本初の会社「アート引越センター」を大阪で立ち上げた女性経営者です。荷造りご無用や輸送中の家財殺虫など、「あったらいいな」というサービスを次々に打ち出し、日本の引っ越し業をけん引しました。小さくても一流を目指した寺田さんが、波乱に満ちた半生を振り返ります。